Kawakatuの独自解釈と新たな疑問点
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まだまだあるが妄想はこれぐらいにしておく。
 
 
森博達氏の手法は正しい。
文献も科学で分化分析する方向性を指し示した。
もちろんヒントにすべき先達がいたことを添えたことで、過去の画期的だった推論にも光明をあてた功績も大きい。
 
一方で、さらなる疑問を好事家に与えてくれたことも間違いない。
 
このように、文献の書かれている内容・・・主観性を無視した分析こそがこれまでなかった視点であり、多くの研究者が真に欲してきた客観的切りわけ法であろう。
 
 
文科系学問が科学になるためには、こうした手法がこれからも不可欠である。
文献は人によって書かれるものである限り、どうしても主観的分析になりがちで、進展が遅く、わかりづらい面が多すぎた。これでは科学の中心にある理科系分化学問には相手にされない。そういう意味で重要な発見だった。
 
 
『日本書記』のどこが正確で、どこが改ざん、捏造かが一番重要なのである。なぜならそれがわからなければ、考古学の資料は本当に生きてこないからなのである。
全部が嘘だったなら『日本書記』など無視すればいい。しかしそうではない。
全部ではなく、虚実ないまぜなのである。それを仕分けできる審美眼は、実は文科系よりも理科系の視点、言語学、音韻学の視点によるのである。
 
 
森氏が史学界に与えた天啓は大きい。
 
 
歴史はもっと科学されなければならない。
 
 
そしてこの森説の間違いもまたもっと論じられねばならない。