宗像市津屋崎町(現・福津市)の宮地嶽神社裏にある、日本第二の長大な石室(22m)を持つ宮地嶽古墳(大塚古墳)からは最古のと言ってもよい青色鉛ガラスの一枚板が出ている。
このような板ガラスが出土するのは極めて異例である。
このガラス板は、使われたとすればまず窓ガラスかテーブルかといったところしか考えられず、日本最古の窓ガラスだった可能性なきにしもあらずである。
時代は6世紀。
まずそのような住居を持った氏族などヤマトでさえ誰一人いなかっただろう。

胸肩君徳善の財力がしのばれる遺物である。
日本最大最長の石室→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51670164.html


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ところで宗像と壱岐は玄界灘勢力の中で、古墳時代終末期、ちょうど筑紫君磐井の反乱が起こった継体から欽明への移行期にどちらも強力な勢力を持つ。

かわかつワールドに書いたように、壱岐氏は中央の武内宿禰系譜として、彼の勢力圏である。
筆者は武内宿禰が非常に不思議なのは、『新撰姓氏録』が書いた系譜の子孫の中で、葛城襲津彦だけがフルネームで紹介されていることである。

『新撰姓氏録』はなぜ葛城氏についてこの人物を特定したのだろう?
その答えを想像すると、おそらく葛城襲津彦は武内宿禰その人だったのではないか?と思いつくのである。この人物は新羅と結んで加耶(『日本書紀』が言う任那)を滅ぼしている。武内宿禰も神功皇后とともに新羅へ行こうとし、仲哀を殺してまで強行し、結果三韓征伐したと「言い立てている」。

どちらも非常に語学に堪能な通訳、海導者としてよく似ている。
筆者は蘇我氏も葛城氏も半島に非常に精通した氏族で、「内系」系譜の主導者だと思うし、もっと深読みすれば、葛城氏は河内王朝の雄略大王によって滅ぼされた理由は、ヤマトの旧王家の中心氏族だったからではないかとさえ考えている。つまり葛城氏とは景行・ヤマトタケル・仲哀という三輪王家と河内王家の中間にある王家・・・海人系・・・ではないか?と深読みしている。

すると同じ海人系だった倭直(やまとの・あたい。祖先は椎根津彦)とも関わる古い海導者で、倭直氏から出てくるだろう若狭の日下部氏(旧字は日の下に下)などとも深い関わりを持っていた。それを河内王家・・・倭五王が配下に治めた・・・と考えている。

宗像氏のように河内王朝の終盤に頭角を現す氏族は、一見して継体あるいは欽明の新しい系譜についた氏族なので、あきらかに伊吉氏や内氏とは切れているが、壱岐や葛城氏たちはもっと古くからヤマトにいた氏族だと考えられる。

葛城氏は吉備王氏や出雲氏とともに出雲の宍道湖の津を持っていた前王家だったと見れば、それを天孫に奪われてヤマトへ入るという構図よりも、先にすでにヤマトに住んでいたのが、ヤマトでやられたという構図だったことも想定できよう。

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