前の記事に転載しておいた岩橋千塚古墳群出土の各種人物埴輪がかぶっていた双脚輪状文型帽子の追求である。
 

 
 
PDFサイトの中によい画像が見つかった。
 
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画像出展PDFファイル http://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/kenkyukai/kofun%20kenkyukai/kofun%20kenkyukai%20siryou/kofun%20kenkyukai13/hanayama2%20soukyakurinjoumon.pdf
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さて九州の装飾古墳に多用されている双脚輪状文のルーツや形状の意味について、これまで諸説が出ているが、いまだに決定的なものがない。
 
この模様は熊本県釜尾古墳,福岡県の王塚古墳、弘化谷古墳、横山古墳の合計4つの古墳にしか見られない(暫定的・候補に丸山古墳などあり)特別な文様である。また亜種として大分県宇佐市大字山下にある貴船平下の裏山横穴墓群の一基に六脚輪状文がある。
 

熊本県釜尾古墳双脚輪状文
 

大分県貴船平下の裏山横穴古墳群六脚輪状文
 
 
 
 
模様の出所はまず間違いなく南海産のスイジガイからである。
 
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ではそれを用いた氏族とは?
これはまずもってスイジガイの貝輪をステータスとしていた氏族で間違いない。
それが九州だけでなく、紀伊半島の紀ノ川沿線の古墳群からも埴輪として出るということは、ルーツの第一番目はまず紀ノ川周辺の氏族。さらに、弥生時代から南海・琉球などと交流があった海人族派生の氏族である。
とするとこの周辺で記録にあり、古代海人族をルーツにするのは紀氏か葛城氏などの武内宿禰系氏族と想定可能。
彼等は弥生以前から南島と交流してきた縄文系倭種であろう。
それが紀ノ川方面へ北上して紀氏や葛城氏になっていったと考えられる。
 
そして古墳時代になると、額田部や忍坂部や靫負部のような河内~飛鳥地域の皇后の名代部として、「故郷に派遣された」と見てよい。もともとのルーツである地域への復帰派遣は充分に可能性が高いだろう。まったく縁故のない地域へいかされるよりも多かったと思える。また、九州は大陸に近く、また熊襲などの残留不満分子もまだ多かったから、防御の障壁としてつかわされた可能性も高い。
 
出雲などでも額田部の記録が鉄剣に刻まれている。額田部は九州だけでなく日本海にも第二のルーツがあったのだろう。名代部そのものが各地の海人族などに与えられ、えにしのあるところへ派遣された。『日本書記』が国造の派遣として書き記した話がるが、これも国造と言うよりもまだ武力的な力で地元勢力を抑え込む軍事的障壁としての派遣であろう。
 
それで双脚輪状文の主を仮定すると、葛城的臣(いくはのおみ)をまず第一に推しておきたい。この氏族は皇后の宮門を弓矢で守る部である。
 
「葛城氏の始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、『古事記』には武内宿禰孝元天皇の曾孫)の子の1人で、玉手臣的臣(いくはのおみ)などの祖とされる。襲津彦以降の氏人としては、葦田宿禰玉田宿禰円大臣・蟻臣の名が知られ、その系譜は断片的に復元可能である。」(Wiki葛城氏)
 
 
ただし的臣自身が墓に装飾を率先して持ったかどうかは別問題で、彼等の手下となった現地の氏族だけが装飾を持った可能性もある。しかし畿内の的臣はそもそも海人系と考えられ、部となるには身分的に相応である。そのあたりの身分的な墓制の違いはもう少し分析されねばなるまい。
 
 
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