みなさんあけましておめでとうございます。
新春初記事の書初めであります。
昨日二日は一般に書初めや初詣三社初参りなどと申しまして、日本人みんなが、新年第一になにかを始める日であるようでありますが、筆者は「褻(け)」の詣(けのもうで)の初日と決めておりまして。
 

久々に新春ポチ袋も貼っておきますか。

 
元日に参るのを晴れ詣とするならば、二日目は、筆者のように民俗学的見地で神社をまわる者には仕事始めであるわけであります。
 
神の社である神社にも、ハレとケのやしろがございますな。さらには「後戸(うしろど・うらど)」のやしろもございましょうが、これはそもそもハレの社の裏側に、神職・僧職らによって密やかに祭られておりますので、表裏一体化しております。もちろんその「うらど」の神こそが日本の為政者階層にとっての実は「真の祭祀形式」であるわけですが、一般人はそれにまずもって気づかないようになっています。
 
ところが地方には、「ケの社」らしきものが、つまり中央では本来、裏に置かれるべき神が、堂々と外に独立して祭ってある場合がございましてな。これらを正月二日に、筆者は毎年めぐっておるわけでして。
 
 
正月早々「褻」とは縁起が悪いじゃないかと申される方もおありでしょうが、ハレの神なるものは要するに為政者側の言い分で出来上がっておりますから、平民にはあまり意味のない場所になります。元日やらのハレの門日(もんび)には、まあ、世間の通り相場に従って各地の一ノ宮や、大社にちゃっとおまいりしておくのが建前で、本気で参っておく=鎮魂・鎮撫しておくべきなのは褻の方であることは言うまでもありません。なぜならば、褻の神とはたとえば代表が出雲大社や三輪山(大神神社)や北野・大宰府の天満宮などでございますが、つまり「祟りなす神」だからであります。
 
今年のそれは筆者在所の北西方にある「年の神」「朝日神社」「白鳥神社」の三社鎮護でございました。おりからの好天で、気温が平地で15度にもなり、標高1500Mの峠でも、車窓を全開放してもなお風ぬるし、でございました。
 
しかしいざそこから100Mのぼりますともう景色は一転して、雪景色なのであります。
 
 
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ここは阿蘇野と申し、おおみそかに書きました「朝日長者」の里なのでございます。朝日長者伝説については先に書いておきましたね。いわゆる稲魂が白鳥(しらとり)になって的にしたモチから飛んでいく=稲魂の死 譚でございます。
 
●長者伝説
全国にある地域に集中的に言い伝わっている中世以後の民間伝承でしょうが、実はその基層には古代から、おそらく山へ入り込んでいった縄文海人族や鉄の民、先住山の民=縄文採集民らが言い伝えてきた古伝承が存在します。たとえばわが大分県には真名の長者(炭焼長者=製鉄・炭焼き)・朝日長者(稲魂)・くたみ長者・百合若大臣・般若姫・平家伝説などなどいくつもの伝承があり、中でも白鳥伝説朝日長者については『豊後国風土記』にすでに原型が残されております。同様の伝説は京都や愛知や岐阜や北関東やなどに点在しますので、おそらく同じ人々が移動しながら伝えていった説話でありましょう。
 
 
 
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同じ九州とは思えぬ景色でありますが、この地には往古、弥生遺跡が出ておりますし、隣接する活火山久住硫黄山の硫黄は奈良時代の献上記録もございますし、久住山ろくには多くの縄文遺跡が出ておりますから、かなり古くからゆえあってこのような高地に人が入ったことは間違いありません。稲作で繁栄したという朝日長者もそのひとりでしょう。ただ、古い時代にこの地で水田が行われていた可能性は低く、満足に水もなく、渡来技術である灌漑なしにはありえないことで、おそらく朝日長者は秦氏のような稲魂に深く関わっていた渡来系の移民であったことでしょう。
 
 
話の簡単な骨格は、千町無田と呼ばれるこの高原に入って音無川・鳴子川などの水路を引いた氏族がやがて稲作で豪農となって驕り高ぶり、大事にすべきコメで餅をつき、それを弓矢の的としたら、餅が白い鳥=霊魂となって飛んで行き、以後、稲は枯れ果てて衰退した、というもので大変わかりやすい伝承になっています。この説話は『日本書記』も取り上げおりますから、飛鳥時代あたりにすでに豊後から人が中央へ行っていた、それが秦氏系渡来人だっただろうと推定可能。
 
 

 
その後、この地には有明海の久留米方面から阿蘇を越えて北上してきた落ち武者たちが入り、今に至ったわけで、阿蘇野という地名もそこからでしょう。それはもう中世以後、たぶん鎌倉以後の話になりましょうか。いや平安末期くらいかと思えます。地元の人に聞いても、ここの土壌は下が泥炭の湿地帯でまったく稲作には不向きだったと聞いております。ただ伝説の舞台である田野は、ここら少し北側の別区画にあり、そこに朝日長者が最初に入ったのでしょう。土壌は違うそうです。今、そこには久住夢吊大橋のかかる渓谷が迫っており、かつては渓谷にはさまれた陸の
孤島のような僻地の扇状地でございます。そこに白鳥神社が建っております。
 

 
 
千町無田の旭に朝日神社があり、田野には白鳥神社です。
一方は水田ができない無田地名、一方には水田地名である田野というのが味噌。
 
 
さて、この大きい二社とは別に、無田の広大な畑地には「年の神」を祭る稲わらで作られた祠がございますそうで、今回の目的はこれであります。ところがこれがなかなか見つけにくい。
 
白い鶴の伝承地、「不断鶴(ふだんつる?ふだづる?読みは不明)」にはすぎに行き着きましたが、そのすぐそばにあるはずの年の神には看板や表示がないのです。「ふだんつる」とは白鳥伝説の白い鶴の子孫二羽がここに生きていたというものですが、それは地名説話であり、実際は「つる」は地形のツルですので、津留(川の港)とか地形が弦のような扇状地であろうかと思えますね。「ふだん」とはではなにかと問われますとにわかにはわかりえません。http://yamanaminavi.jp/stories/detail/67
おそらく「死なない」という意味ではないかと・・・。
 

 
 
 
まず朝日神社から細い街道を左折してかなり北上すると、阿部酒店の前にY字路になったわかれがあり、それを左へ降りていきますと、うっそうとした森になっており道が凍結しておりました。
 
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このカーブの両側は縄文クリの林が残っております。見上げるとまっすぐなクリの木で、こういうクリの木はなかなか珍しい。クリはだいたいほっておけば曲がりくねってしまいますが、この木はまっすぐ天にのびていました。つまり人の手が入っている、つまり果実よりも建材としての樹木だろう。ということは往古は縄文人的民族がいたはずです。
 
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さて「不断鶴」石碑にすぐ到着。
石碑はかつて大分市長が建てたもので、案内板もちゃんとあり、遺跡地図もあります。しかしこの簡易地図はなかなかわかりにくく、住民ですら年の神の在所をはっきりと教えられない・・・教えてくれない?あるいは知らない人が多い。
 
 
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年の神は石碑の手前にあるのか、先にあるのかがよくわかりずらい。地図では50Mほど手前にあるらしいのですが、何べん往復してもわからない。おまけに足元は凍結していますから、運転に気をとられて左右を見落としてしまいがちです。
 
じゃあ、先かと、進みますと、すぐに音無川に行き着き、さらに進めばもう本道に出てしまいます。また後戻り・・・。そうやって五往復もしてようやくその入り口があることに気がついたわけなのであります。それはさっきの栗林のカーブに密やかにあったのでありました。
 
 
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なんの看板もない、小高い土手に小さな小さな階段と、聖域を示す木の柱が二本。
これでは見落としてもいたしかたありません。
 
 
次回へ続く。
 
 

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