先に「古代」という語について気になっているので、一言。
文献史学の古代とは飛鳥~奈良~平安前半くらいを言い、上古・中古・下古と分けるが、それ以外の自然科学を含めての「古代学」では、一般に縄文から古墳時代以前までをゆるく古代と考える傾向があり、文献史学の古代にあたるような適当な呼び名が、まだ、そこにはつけられていない気がする。このままではややこしい。では新石器~古墳時代までのまだ文献のない時代をなんと呼ぶべきだろうか?たとえば文献のある時代を「有史時代」、ない時代を「先史時代」とするべきだと感じる。





日本人祖先の頭骨の時代的、地域的、また諸外国人骨との比較は、頭骨画像を総覧するのが一番わかりやすい。


そこで有史以前の頭骨比較を一覧化した。
主たる頭骨画像資料 中橋孝博『』倭人への道 人骨の謎を追って」2015




縄文時代

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本土縄文人の顔つきはさほど地域差がない。琉球同時代人骨と比較すると、頬骨に違いが顕著である。本土縄文人は頬骨が高く、広い。これはアイヌや琉球人と大きく異なる北方系の寒冷化対応であることを示している。東北現代人やモンゴル人に多い形質だろう。つまり縄文時代(旧石器時代も実はそうだが)には、日本列島の南北と中心部で人種的に相違があったことを示している。例えば北方系と南方系というざっくりした言い方や、新モンゴロイド的と古モンゴロイド的という言い方もできる。

しかしその度合いは、のちの弥生人と比べると、非常に微々たる北方系化であり、そのほかはいずれも額部(眉のひさし)が張り出し、眼窩が窪んで、あご骨奥行きが広いなどという欧米人的な顔つきに再現できる。

同時代の中国華北人と比べると、あきらかにその違いが見える。華北人はむしろ弥生日本人にそっくりで顔が長く平坦、縄文人のほうはごつごつとして顔が短い。ところがモンゴル平原の一部で、チャンドマン遺跡のように縄文人に近い彫りの深い骨が出る。彼らはおそらく匈奴やウイグル民族やスキタイなどと呼ばれた、今で言えばウイグル自治区、旧ソ連の西部に集まった「~スタン」という国名を持つ西アジア人祖先とアジア人祖先との混血であろう。日本人ほどではないが、今でも、そこへ行けば実にバラエティー豊かな顔つきが混在する民族である。髪は黒いのに眼は青かったり、金髪だが眼は茶色とか、あるいは日本人そっくりなひらめ顔なのに髪は赤毛とかで、白人と西アジア人と東アジア人がまざりあった人々に出会うことができる。

縄文人が、日本列島に来る前に、すでにあちこちで数万年かけて混血したことはあきらかだろう。その原種のひとつとして今はアイヌが存在する。北海道でさえ、往古は数種類の縄文人がいたことだろう。現在の人類学では東西で区別されアイヌをくえわえると少なくと3種族以上が来ているはずである。



先日書いたように、縄文人の形質は、多くの点で中国最南海岸部の柳江人とよく似たグラフを描く。これまで柳江人はむしろ沖縄港川人との関係を言われていたが、不思議なことに彼らは目の前にある台湾から北上せずに、大陸海岸部から遠隔北上して、シベリアから本土に向かったのかも知れない。






弥生人

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一番際立っているのは「さんま顔」である。中国長江河口部の河姆渡遺跡人骨は、あごが細く出っ張り、出っ歯。えらが張って、頬から下はげっそり細いという明石屋さんまにそっくり。さんまは奈良県出身だが、もうひとり山口県出身の田村淳も似た顔つき。河姆渡は稲作が出て行った場所とも言われるから、大和地方と土井ヶ浜のある地域の現代人によく似た顔があるのは実に興味深かろう。

さらに同じ福岡圏内の顔が、これほど違うのかとも感じるはずだ。弥生人と一言でいってしまうが、実は微妙なバラエティが或る。一概にこれまで、縄文人と弥生人を安易に比較して、あなたは弥生顔か縄文顔かというざっくりとした区分けが多かったけれど、今後はもっと複雑な地域性を考察すべきサンプルになるだろう。

実際、考古学遺物(甕棺・支石墓・周溝墓などの葬礼風習の相違)やイネの品種の違いが北部九州の東西にある。


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まして南九州まで考えれば、弥生人にもかなりの地域差があることに気がつくだろう。

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同上サイトから




特に南九州弥生人は、頭部が大きく、顔がほっそりと、頭大小顔で北部九州弥生人とまったく違う民族だったことがあきらかである。それほどではないが北部九州人でも、西と東であきらかに違うことがわかると思う。つまり弥生人渡来人もまた複数種の渡来が地域によってあって、さらにそこで現地人と混血すれば、すでに何種類かの組合せができていたわけである。墓制の東西の相違、稲遺伝子の違いは、人骨にまったく矛盾しない。以前書いたと思うが、西側は甕棺墓を中心にして、中国江南人的で、イネにも江南遺伝子があり、縄文人と混血したとされ、東の遠賀川周辺では、南朝鮮的で、イネも中国種はまざらず、縄文人との混血も希少だったのである。



また抜歯風習を見ると

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モンゴルの梁の人と日本海側山口県の土井ヶ浜人にそっくりな抜歯風習があった。







その他諸外国比較。

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上左・グルジアのドマニシ遺跡の例では、同じ遺跡の人間なのに、まったく違う相貌の骨が出ている。どちらかが旅行者だったのか?あるいは侵略者だったのか?はたまた混血度合いの問題なのか?かなりの異例なサンプルである。


上右・ホモ・フロレーシエンスの小さかったことがよくわかる比較。

中・アメリカのケネウイック・マンの頭骨。どれにもあてはまらないような相貌。


下・紛争中のシリアの二つの遺跡から出た人骨は相当に人種的相違があったことがわかる。パルミラからは弥生人そっくりの女性頭骨が。実に不思議。先史時代にそれほどの旅行移動があったのか?あるいは中央アジアで混血して戻ったのか?


シルクロード・ステップルートは人種・異種相貌のパラダイスである。碧緑人とも言われた青い眼のアジア顔の人、西欧人の顔つきの人・・・まことに異界だと言える。彼らが遊牧民スキタイの子孫であろうことは想像に硬くないが、西欧では、人類分岐の地を今でもバルカン半島のアナトリアであると考え、自分たちとよく似た顔つきの異民族に非常に興味を引かれ、主観的に欧州人の祖先をそこに求める傾向は、実はアイヌへの興味、縄文人への興味と共通点を持っている。であるのに、中世、十字軍は勝手に異民族・異教徒である中東を侵略し、略奪して文明を発達させた。この心理的ギャップが東洋人にはわからない。その長い侵略の歴史が、今のISやアルカイダの怨恨としていまだに火種となる。キリスト教徒たちは、まるでそのときの反省であるかのように中東、イスラム文化やオリエント文明の源流を中東・トルコに求めようとする。しかし当の中東人・イスラム教徒たちははるかな過去の怨恨を今も忘れず、西欧の歩み寄りを毛嫌いする。まったくのすれ違い。彼らは忘れていない、ロレンスにだまされたことも。これでは中東に心理的和平は訪れるはずはない。



話がそれてしまった。
日本人は世界の東のはしで、多種多様な文化と人を受け入れ続けた。日本文学研究の権威ドナルド・キーンの言葉を借りるなら、日本人はすべてを受け入れ利用はするがもっと自己の高い文化を世界に広めてゆくべきだった。

それに答えて司馬遼太郎は、日本人は世界の極東にあって、なんでも受け入れ加工するが、自らは奥ゆかしく決して自分が優れた民族などではなく、進んで売り込むことはしない民族だ、と返した。まことにこれまた一方通行の考え方のすれ違いである。似ていることを言っているのに、中身がまったく違う。文系人種の言い回しは、このように確かに具体性にかけるが、ぐさっとそこを突いている。中東と西欧も同じことではないか?