「「壬」の字は十干の一つ「みずのえ(水の兄)」であり、壬生は「水辺」の意味を持つ言葉という説が一般的である。また、古代の職業部に壬生部があり、これはもともと「御乳(みぶ)」で皇族皇子の養育を司っていたものとされる。壬生部の居住地に壬生という地名が付けられたともされ、諸説ある。」ニコニコ大百科http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%A3%AC%E7%94%9F

つまり水生まれるところで「水生 みう」が古い。
この「水」を水銀では?と考えたのは松田寿男である。『丹生の研究』。
古来、水銀を「みずかね」と訓じており、水地名=水銀地名である場合もあるだろう。
徳島県水井町に水井(すいい)水銀鉱山がある。この場合はあきらかに水銀地名である。この鉱山を含めた鉱山全体の総称が丹生鉱山である。
しかし「にゅう」はにゅうであり、「みう」ではないことも否定できない。

そもそも丹生は「にふ」、壬生は「みふ」で、音韻の「ふ」は濁りである。
丹生と壬生が地名に分かれ存在するということは、二者はそもそも別々の意味の地名だったということで間違いない。

ただ、のちに壬部氏が壬部を派遣して水の湧く土地を求めたとき、丹生つまり水銀やベンガラ鉱床が同時存在した可能性はあるだろう。

ところが、近頃、栃木県壬生の古墳内部に大量の赤色が塗られているのが発見された。

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Wiki車塚古墳より



車塚古墳の石室、全体赤く 魔よけ?「神秘的古代ロマン」 栃木・壬生
産経新聞 10月24日(土)7時55分配信
 「壬生町壬生の車塚古墳で23日、町教育委員会が進めている発掘調査の現場が報道陣に公開された。県内最大の切石造りの横穴式石室を発掘調査後、初の内部公開で、棺(ひつぎ)を安置する部屋「玄室(げんしつ)」の奥だけに赤い彩色が施されていたとみられていた石室は、調査の結果、前室を含め全体に赤く彩色されていたことが分かった。

  車塚古墳は国指定史跡。7世紀前半の古墳時代末期に造られた直径84メートルの国内最大級の円墳。平成26年度から町教委による初の本格調査が進められている。
  今年度の調査で、玄室両側壁や前室の壁に、酸化第二鉄からできる赤い顔料、弁柄(べんがら)が確認され、石室全体が赤く彩られていたことが分かった。町教委生涯学習課の君島利行(としゆき)文化財係長は「神秘的な古代ロマンを感じる。赤い色は魔よけの意味があったのではないか」と興奮気味に話す。

  後の時代に寺院として再利用されるなど色は落ちてしまったが、土に埋まっていた部分などにかすかに顔料の赤い色が残っている。

  また、石室石材の表面からは石材を加工した痕跡が明瞭に残り、玄室は天井の高さが2・3メートルと、当初確認されていた2メートルよりも高かったことが判明、埋葬された権力者の権勢の大きさも感じられる。玄室は幅2・8メートル、奥行き3メートル。前室は幅2・5メートル、奥行き2・4メートル、高さ2・1メートル。玄室の奥からガラス玉86個などの装飾品が出土している。

  車塚古墳は26年度の調査で、古墳全体が葺(ふ)き石で覆われ、須恵器が周囲を囲むように並べられていたことなどが判明している。
  31日午前10時と午後1時に現地説明会を開催。調査に関わった茨城大の田中裕教授、東京学芸大の日高慎准教授、両大学生らが説明する。駐車場は近くの町健康福祉センター。問い合わせは町立歴史民俗資料館(電)0282・82・8544。また、11月21日に城址(じょうし)公園ホール(同町本丸)で調査の成果を発表するシンポジウム「みぶ車塚古墳の時代」を開く。申し込みは11月1日から同館で。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00000016-san-l09







壬生車塚古墳
は終末期古墳。造営は7世紀初頭か?
「車塚古墳 (くるまづかこふん)は、栃木県下都賀郡壬生町壬生甲にある円墳。同名の古墳が各地にあるため、壬生車塚古墳と呼ばれることもある。大正15年(1926年)国の史跡に指定された。全国最大級の円墳。」Wiki
横穴式石室


壬生
 栃木県壬生町は戦国時代に壬生氏の支配下にあったが、それは地名由来ではない。壬生地名に入ったから壬生氏と名乗っただけであろう。だからこの壬生氏は古来の壬生部氏族とは関係がないと考えるのが古代史・中世史の比較では定石。
下野国壬生氏「室町時代に京都の地下官人家・壬生家(小槻氏)から出た、壬生胤業を祖とする。この出自に確証はなく、胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔とする説もある。また、壬生胤業を宇都宮氏庶流横田氏の一族である壬生朝業の末裔とし、壬生朝業を壬生氏の祖とする説もある。」Wiki壬生氏

戦国武将の出自詐称は常である。伝承に信憑性はないと思ってよい。
それ以前からこの地は壬生であろう。
つまり水が湧いており、あるいは古代に壬生部が入った地名。そこに水銀もあったのだろう。

いや、そもそも「水を探す」とは「みずかねを密かに探す」という意味の隠語だった可能性はある。水銀は聖武天皇大仏建立に必須のアイテムだった。また古くは水銀の中にある砒素は漢方の不老長寿薬としても珍重されたし、そこには金・砒素などが含まれる。縄文時代・弥生時代から墓の赤色に使われてきた。利用法は腐敗防止である。意味は魔よけ、辟邪、生命力の赤が再生をうながす・・・などなど。

そもそも水を探すとはなんのうまみが貴族にあろうか・・・なのである。農民ならそれは大切であろう。しかし農作をこととしない貴族にとって「みぶ」はあくまでも乳部のひとつである。

しかし天皇家の水を京都の鴨脚家は永年にわたり管理してきた例もある。水とは生命の根源である。そこに魔力があった。古墳時代から王家・豪族は古墳周囲で水祭祀を行い、それは祖霊再生儀式であった。だから水辺には※水端女神(みつは・めのかみ)が置かれるようになった。この女神と丹生都比売が同じ場所に同時存在する。つまり水探しは十分に、往古貴重品であった水銀探査行為の隠匿に都合のよい理由となったかもしれないわけである。密かに、密偵のように、鉱物探査は行われた。

※みつはのめのかみ・・・記、弥都波能売神  紀、罔象女神
みつは=水際、水端


鉱山師にとって水銀は、金脈であって、そこにはあらゆる鉱物が溶け合っていたし、水銀鉱脈に沿って貴重な貴石や有用鉱物が存在したのである。ちなみにミネラルウォーターや温泉なんぞも、彼らによっていくつも発見されたことだろう。平安時代には特に貴族が祭祀を好み、修験者などが内密にそれを探査している。彼らはいわばお庭番のようなスパイでもある。銅、鉄、金鉱脈を見つけてくるのはだいたい渡来系氏族である。名は生業を指したのが古代である。

壬生は水か水銀かと争うのはそれこそ水掛け論である。そもそも最初から双方が掛けてあるのだと思うほうがスムーズに理解できる。この古墳が赤い色で覆われていたというのは、その被葬者の家臣団に壬生部か丹生部がいたのであろうし、地名が壬生ならば前者であろう。いずれにせよ、水銀やベンガラは新石器時代から全世界で墓に塗られた色である。それほど貴重品ならば、探査する連中が地名にヒントを残すような馬鹿正直な地名をつけるはずがないのである。だから実際の水銀鉱脈は壬生町からかなり離れたところにあったのではないか?もちろん丹生だったところに壬生部が入って地名変更した可能性もあろう。丹生地名必ずしも水銀鉱脈にあらずも世の常なのである。しかし、ここの壬生にある古墳は真っ赤に奥壁が塗られていたのだから、おそらくなんらかの赤色の鉱物があったのである。そういうことが言える遺跡は貴重である。