今回から6世紀日本の画期となった大事件・筑紫君磐井の乱を考古学から徹底研究してみたい。


磐井の乱は、6世紀まで存続したであろう北部九州地縁的連合体を、畿内王家とされている連合体が、朝鮮半島の支配権をめぐって国内で対立した大事件であり、磐井の敗北によって伝統的筑紫王権とも呼ぶべき伽耶・百済・高句麗に及ぶ朝鮮半島西部に、横口司式石棺と横穴式石室を持つ数々の前方後円墳を作った九州支配体制を、5世紀から続いた倭五王王権を引き継ぐと記紀が言いたい継体大王を担ぎ上げた畿内政権が、東国・北陸・丹後小王国なども巻き込んで奪い合った内乱であり、3世紀からの古墳時代を一気に畿内主導型の飛鳥時代へと大転換させた、古代日本最大の「関が原の戦い」であった。しかし、一般歴史ファンやマニアのみならず専門家でさえも、筑紫君磐井の乱を日本史上でさほど認識してきたとは言いがたい。一般の歴史好きの中でもこの内乱は、それほどの重大事件だったという見解はなかなか見られない状況である。

認知度の低さは、ひとえに全国学校教育の地方王権存在に対する認識の薄さにあるだろう。しかし関が原が単なる国内覇権の奪い合いという内戦だったに過ぎないに比べて、磐井の乱には新羅・百済・伽耶・高句麗さらには北魏、中国まで巻き込むほどのスケールの大きさ、磐井や継体のグローバル外交権の奪い合いという、東アジア政治・経済事情も絡み合うような、現代企業戦士にとっても参考になる複雑さがある。白村江敗北、元寇、明治維新といった海外との経済戦争・領土奪い合いの意味が、6世紀という最古の時代に起きたことはもっと歴史的にも、政治経済史的にも再認識されるべきであろう。将門のようであり、それ以上だ。まして、九州地域では、それが本当に反乱だったのか?本当に磐井は敗北し、王権は大和にスムーズに移行したのか?をもっと深く意見交換するべきである。村おこしとしても、筑後地方、筑紫・豊・肥地方も、この一大戦争の正しい姿を子どもたちに伝えてゆくべきである。








考古学遺物による磐井の乱分析には以下のテーマが存在する。
1 古墳群の編年
2 石棺の編年と石棺素材としての阿蘇石の移動と造山・今城塚古墳と倭五王
3 石製表象(石人・石馬・石製武具・動物など)の編年と畿内の影響
4 吉備・東国・出雲・丹後・越・東海(旧邪馬台国連合)の乱連動の有無
5 記録と考古学での乱まで乱以後の分析

八女古墳群の編年については以前ここに書いたので、今回は4による5分析から始めてみたい。










1 阿蘇溶結凝灰岩横口式石棺による九州王権の存在

磐井の乱を遡ること1世紀。九州西部、有明海沿岸地帯において阿蘇山噴火による溶岩流が溶結してできた凝灰岩を使った石棺が、全国へばらまかれ始める。植山古墳を除いて、すべて近畿の継体大王の関係者の墓から出土する。

この横口式石棺とは、組合せ式家型石棺と言う古い肥後型の石を組み合わせて作る石棺の短辺に開口部を設けた横穴系埋葬施設である。いわゆる畿内型とされる移動可能な石棺とは違い、これは据え付け型でっあったが、やがて畿内のような持ち運び形石棺が現れ、その妻入り部に四角い窓を開けたもの。中が見える様式は、往古からの九州的何度もの参拝を可能にし、横穴式石室もまたそうであるので、横口式はあきらかに九州の死生観を反映した装置だと言える。

五世紀前半の石人山古墳からこの石棺様式は開始され、六世紀中頃まで今のところ13例が発見されている。


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柳沢一男『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』より






あ、ここまで書いたらひどく疲れました。
またあとで気が向いたらここに続きを書きます。
それまで See You Agein・・・.