有志会員と友だちさまのみに公開します。



牛と言えば日本では生贄にする動物である。しかし生贄儀式そのものは災害神へのささげもので機嫌をとる儀式で、牛は「あめうし」などと言われて黄色い牛だとされる。あめうしとは、のちに牛供儀の意味が雨乞いに変化してのことである。牛の首を滝のあるような小高い聖地で切り落とし、神社に奉納。胴体は下の川へ捨てていた。それを拾い上げて食べることで遺体処理していたのが犬神人=ジニン(通称清原とか千原とか清川、清瀬、原井、祓井などである。地名。現代の人名とは無関係)である。

しかしアメノヒボコの日光受精説話では牛は生命を生むものとして扱われており、生と死、ハレとケガレが表裏一体であったことがわかる。牛が斑(まだら)であるのも、斑とは生命力=混血を現す。神への生贄に諏訪大社御頭祭では「なます」を捧げたが、この「なます」とは「膾切り」とも言うように、肉とはらわたと血が入れ混じったおどろおどろしいものでもある。月編の「膾」と魚編の「鱠」があり、本来古くは肉だったようで、諏訪の神長館にいくとサンプルが置いてある。ウサギや鹿の肉や肝臓などと血液がどろそろに混ざっていて、この色を本当の綾錦と言ったらしい。あやしきいろ。

キリスト教では生贄は羊となっているが、日本には羊はおらず牛馬だった。実は古代日本の牛馬はその多くが犠牲として育てられており、使役に使われ始めるのは新しい。まして貴族は食わず、捨てていた。それをほっておけば川が汚染されるので、穢多ヒニンはそれを食べた。つまり河川の汚染と疫病を彼らは身をもって防いでいたのである。こうした具合で、穢多は馬鹿にしてはならない3K産業の一翼だったことに気づく。獣肉解体やし尿処理、皮革加工がそこから出るのは当然のことであり、彼らが聖と邪両面を持つ存在だったこともわかる。これを「ちゅうげん」と中世では呼んだ。神と人、どっちでもない、中間の存在。こうもり。つまり境の人である。のちに日本では、坂を護る部とし境部(さかいべ)が設置されたが、たいがいはそうした出自や渡来の民から出た。その部を管理したのは、彼らの上位の「人」である。坂部、坂井部、坂上など。もちろん役職上の貴人も管理者にはなったことだろうから、今の人名とは関係はない。地名を名乗った場合は当然多い。



katakonnbe