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北部九州~中九州にかけて、装飾を持たない知事クラスの古墳と、装飾を持つ在地人的古墳がつかず離れず混在するのは誰でもわかることと思う。例えば福岡県吉井町の月の岡古墳と日ノ岡古墳が隣り合うのはその最もわかりやすいものである。

中九州熊本でも江田船山古墳・井寺古墳などと装飾古墳が隣接関係を持つ。

これらの知事クラス古墳は吉備系氏族のものであろうと推測している。装飾がなく、家型や箱型、横口式の石棺を持ち、直弧文や同心円紋のレリーフがそこにはほどこされている。筑紫君の八女では石人山古墳がそうである。同時に少し離れた周囲には装飾古墳がある。

さらにその装飾古墳氏族の部民や人クラスだろう横穴墓も点在する。この様式は、北部九州が首長と海人族家臣団との二頭体制であったことを証明している。

問題は、その首長が現地倭人であったかどうかだが、3世紀の邪馬台国は、弥生時代の後半までの寒冷化と乾燥化によって渡来が多発した時代に、すでに北部・西部九州から離れ東へ移動したと考えられ、それが大和纏向や東北縄文世界に突如として甕棺的な土器棺を登場させ、吉備には陶棺という高句麗的なひつぎが。

大和では卑弥呼の時代には吉備系埴輪による祭祀が起こり、そこに全国から人が集まった形跡が出る。

3世紀とはそのようなダイナミックな政治体制の変革と移住が起きた時代であり、それについてゆく家臣団が海人族である。彼らの中では、どっちにつくかの葛藤と仲間割れも当然起こって不思議ではない。もちろん渡来してきた倭種の子孫たちも、半島南部伽耶系倭種たちとの間でも同じ葛藤が起きる。長江系か伽耶系かで乱が起きたのではないか。

それはつまり大陸の、南朝か北朝かの葛藤による三国時代の縮図であろう。

継体も磐井ももともと百済・江南とのえにしが深いと言う点で、同じ穴のむじなである。それが記録でにわかに磐井が新羅とつるんでとか書かれたのは、あきらかに大和朝廷初期の藤原体制が作り出した嘘であろう。



しかし、この二頭体制こそは、これまで日本の歴史研究者を混乱させてきたものではなかったか。九州=装飾古墳で明快にくくりたいところに、装飾のない古墳が出てきて、しかもそっちの方が立派な古墳である。出てくるものも立派。

一方、装飾の分析では、その被葬者はどうやら中央から派遣された靫負(ゆげい)氏族のものもあるらしい・・・。複雑な氏族の混在が時代を追って起きている。だから九州だけでものを考えていたらこの問題は解けないのは当然である。大和や吉備をからめて、『日本書紀』の嘘ではないところを見出し、さらに大陸事情とつき合わせていかねばわかるはずがない。