いずれにせよ北部九州には4世紀から大和が送り込んだ吉備系国造クラスが各地に入っていて、吉備系が弱体化して継体が登場し、上からかぶさる。具体的に記録にある筑紫物部氏(麁鹿火 あらかい のような)の7世紀前での為政者交替劇は明確に起き、従来、吉備系筑紫君に従属していた装飾を持つ家臣団のそれへの従属関係移行が起こったようである。



特に2は、『日本書紀』のプロットとしては、北部九州は筑後地域も含めて4世紀には中央(最初は吉備、次に河内、最後は大和)従属体制ができはじめていたが、筑紫海人族(紀氏や大伴氏の部)のこれらへのつかつはなれずのあいまい・優柔不断な従属関係が続いていたところに、継体という日本海の豪商一家から大王が。それが実は筑紫の磐井だった可能性(九州王朝の大和簒奪侵入の可能性)である。『日本書紀』はそれを隠すために、磐井と継体を二人にわけ、殺しあったことにしたのでは?
実際には継体の直後には欽明=蘇我氏が飛鳥王朝を建てて、河内王朝が完全に終わったわけである。そういう説も考え得るかと思い始めている。



筆者は1と2のどちらかであると新たに提案しておきたい。