このたびのノーベル賞、また日本人が二名が受賞という快挙。
それもどちらも理科系での受賞。



これに関連してニュースなどが北陸~岐阜にまたがる「ノーベル街道」をとりざたしている。

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Yahoo!ニュースより


いわゆる国道41号という「ぶり街道」に沿って、ノーベル賞受賞者が密集するということらしい。

国道41号は富山から岐阜飛騨・高山を経て愛知の名古屋へ至る国道で、国土交通省が「ぶり・ノーベル街道」として大いに全国に売り出した道路開発事業であったと聞いている。


むべなるかなと思うのは、古代から、日本海と東海地方を、急峻なアルプスを越えてつなぐ「技術・職人文化の道」は、例えば金沢のウルシ、福井の越前和紙、富山のヒスイ加工・表具、岐阜の杉加工・製鉄刀鍛冶・美濃和紙などと、往古から職人文化が根付いた地域であり、そうした技術文化の日本海集中が、高度成長期にはかなりの頻度で日本の技術の精密さを世界に知らしめてきたわけである。

こうした日本海側、北陸地方の職人文化の背景には、例えば福井を母方とした継体大王の庇護による、伽耶、百済を中心とする半島渡来職能民の招来もあっただろうし、単独の流民によった大陸事情による移民もあっただろう。

単に越前・越後・飛騨だけにとどまらず、この日本アルプスを経た職人文化は、諏訪や信濃川を経て馬籠・妻籠街道によって北関東へも流れ、江戸期に飛騨匠や製紙工業、養蚕、製鉄、活版などなど、さまざまの職人文化を広めてゆく始点でもあった。

この「ぶり街道」の始原的なものはすでに建築史の中で、飛騨匠を生み出すベースとしての寒冷期における縄文高層建築の南下によって始まっており、その道がやがて弥生・古墳時代には渡来文化のコースにもなったと考えられるのである。

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比較的温暖だった縄文中期の中部地方の人口比率は非常に高い。




この国道41号の行き着くところに名古屋があって、ここのノーベル賞受賞の数もまた特筆すべきものがある。

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愛知・静岡の東海地方も、弥生の渡来文化によった一大文化圏を形成した。それは近畿の大和主導による移民以外に、東国・関東にまで及ぶ半島からの暫時単独逃避の影響も否定できない。それが日本海からやってくるものであったことは否定できまい。
伽耶や高句麗や百済が、大陸東アジアで中華や蒙古によって圧迫された歴史が、彼らを日本海へ押し出す。記録で残っているのは大和主導型の公式の「渡来」であるが、それらは王族とその支族の帰化であって、部民クラスの職能民のすべてが彼らに従って渡来したわけではなかろう。あぶれたものは単独で海へ乗り出すしかない。


海流はおしなべて北部九州からの対馬海流が非常に激流で、めざすところは九州であっても流され、出雲半島や能登半島にひっかかるケースは多かった。


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いわゆる森浩一らが言ってきた「潟湖文化」である。
縄文海進時代にはまだあった日本海に面した潟は、いまや汽水湖や淡水湖となって内陸にあるから想像しにくいが、かつては海に面し、ラグーンを形成していて、そこは海をゆくものたちの大事な中継地となったのである。



ヒスイや黒曜石の流路から見ても、北陸は古くから加工業者がたくさん住み着く基盤がある。



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ヒスイは中国へも輸出された知名度の高い産地が越にはあった。そうなれば国際貿易港であったとしても不思議はない。文献では古志のヌナカワ姫とは姫川のヒスイの神格化であろう。出雲のオオクニヌシとの婚姻は、つまり出雲と古志の深いかかわりの象徴である。

その大いに繁栄する時代は、継体大王時代がメインであろう。



文化は大きくは北部九州から東へ流れたが、そうした大陸事情による職人の単独逃避行が、遅れていたはずの東海・関東・東北へ、中央とはまた違った職人文化を生む基礎をはぐくんで行ったことは、その地域の方言などに明らかに朝鮮語イントネーション、アクセントを残したり(北関東方言・東北弁)、職人文化を残したことからも間違いないだろうと考えている。












列島を横断する渡来の道はまだまだ各地にあっただろう。出雲から美作・吉備へ抜ける街道からも今後の発掘が待たれる。