環境が歴史を作る。


その2

5 縄文草創期~早期にはすでに縄文人たちは果樹栽培を開始している。ウルシ、クリ、麻、ひょうたんなどの外来植物の種子は東北地方北部日本海側で当然のように出た。そして前期以降、その種は管理・栽培されている。なぜならこの温暖期には縄文人の定住生活の痕跡が出るからである。可能性としてもう豆類まで栽培していたという考えも出ている。藤森栄一以来定説化していた中期農耕論は見直され、縄文時代・縄文人の原始的イメージは考古学によって今や明確に「文化」であることが定説化しつつある。

こうして中期中葉~後葉(5500年前~4700年前にかけて)には広場を中心とする掘立柱建造物、竪穴住居、貯蔵穴が同心円状態で配置される「環状集落」が日本各地に営まれ、さらにはエリート層、退役狩猟者長老を要とするネットワークさえ完成した。階層と情報網の誕生である。これらの環境を許容したのがこの時期であり、そのゆとりが生み出した「凝り」の意匠の代表が長野県の火焔土器や破壊されない大型土偶である。


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典型的環状集落の概念図約5000年前(縄文中期中葉)

この一時的な温暖化こそが人類に定住と農耕、そしてゆとりある芸術性をもたらすのである。




6 しかし4700年前、気候の冷涼化はすでに始まっていた。三内丸山遺跡は終焉を迎え始める。各地で放置された貯蔵場が出土し始める。そして同時に、人々の切ない環境復活への願いを見るかのような環状列石集団墓、柄鏡型住居、そして夭折幼児の家屋内甕型土器での埋葬などが出現する。縄文人が呪術・祭祀に走るのはこの時期である。あまりにそうであったために、本末転倒的に火焔土器すら鍋カマとして実用された。ゆとりがあきらかに消えたのだ。


7 後期・晩期には、巨石、石のモニュメントは急増する。容易に変化しない石への憧憬、陰陽物祭祀による生命誕生への祈願は根強いものとなっていった。
晩期を代表する遺跡、亀ヶ岡遺跡がこのとき登場する。
亀ヶ岡文化の標準遺跡は大洞貝塚(大船渡市)である。東北から関東までこの文化は広まる。3000年寒冷期。

西日本では、この二度の寒冷期に、半島南部倭族の一部が遠賀川流域へ早くも南下。黄河文明人が南下して既存の長江文明人をのみこみ、離散させ、長江河口部から列島へダイレクトの大移民が、内陸部からはインドシナ北部への移住が起こる。長江系遺伝子を持った稲や炊飯方法、高床式住居、祭祀様式、甕棺墓、銅器銅鏡、豪華な副葬品、鉄器などが一気に北西九州に流入。南海の貝交易が開始。北部九州倭人はこれを貝輪として珍重。琉球、奄美、南九州人は貝の道で交流ルートを開発し、朝鮮、中国とも交易。中国へは貨幣としての宝貝・イモガイが運ばれるようになる。次第に文化の中心地は西日本、九州へと南下した。琉球からは亜熱帯植物が北上運搬され全国に広まっていき、また半島海人族の土器や複合釣り針が有明海から出るようになる。

8 しかし、冷涼化をさらに後押しするかのように2800年前、さらなる寒冷化の波が押し寄せる(2.8Kaイベント)。

※Ka=kiloannum=地質学などの単位。千年

これによって縄文人はさらに列島内を南下し、同じように寒冷化で南下していた半島由来の遠賀川系半島渡来人と日本海側で遭遇する。これが異民族との第二次遭遇である。東北や南北海道に遠賀川土器を真似した製品や南海産貝殻模造品、そして水耕稲作が登場する。



しかし北海道ではすでに津軽海峡は分断されており、アイヌが残存。往古のままの縄文生活が存続した(続縄文時代~擦文時代=オホーツク文化期)。



9 水耕稲作を生業とする渡来人と、古式陸稲・焼畑農耕の縄文人とが出雲・美作・吉備などで出会うことでついに弥生水耕漁労文化のめばえが開始された。それが2500年前・・・つまり紀元前500年の直前である。ここからを弥生時代と呼ぶ。

10 1世紀再び寒冷化。128年の寒冷化で前漢が北方民族の南下を契機に滅亡し、華北・華南の民族が九州へ移住してくる。中国は動乱期を迎え劉邦が後漢を建てたが、さらに後漢も北魏の南朝的な神秘主義祭祀一族の反乱で滅亡し(黄巾の乱)、また移住者が。九州西北部や日本海に入り、先住する長江子孫と縄文の混血子孫=倭人との間で大乱起こる。



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これらの相克の結果、倭人は和合の文化を会得。一気に大和朝廷への道を歩み始めた。王には倭族、大臣に黄河系、伽耶系。用心棒や技術者 に百済系などを擁してようやく朝廷ができはじめる(推定)。これが5~6世紀。倭族的自然崇拝や祖霊による霊魂再生死生観、今に通じる宇宙観と縄文的死生観が合体。







11 1.5~2世紀、繁栄していた北部九州から倭国大乱による民族大移動が起きる(邪馬台国東移動)。遠賀川系はいち早く日本海を北上。菜畑系は南九州周りで瀬戸内を大阪湾へ移住。近畿地方ににわかに一大文化圏を形成する。倭族的な巫女王を立てて、渡来華北人捕虜を通訳に、北魏とえにしを結び、一方で呉の南朝とのつきあいも継続しつつも、魏の勝利によって北朝へ初めて朝貢を果たす。これによって九州王朝は有名無実となり、文化は一気に近畿地方へ傾いた。

12 4~5世紀、繁栄する大和に朝鮮~出雲・吉備経由で北魏系と朝鮮伽耶系王族秦氏の渡来。河内王朝を大阪湾に建て、大和をうかがう。宋へ朝貢することで既成の大和社会に脅威。彼等は黄河系北朝再興を狙う遊牧民子孫である。大陸的なヒエラルキー大古墳時代の始まり。

13 大和は出雲、吉備、葛城、九州王家を懐柔してこれに対抗。日本海から招聘された貿易者を大王に立てて河内王家を滅亡。古墳時代から飛鳥時代へ。前方後円墳の終焉。


日本人がこうしてできあがっていった。背景に地球の気候環境。
いわゆる「和」の思想の始まり。しかし朝廷としては内向的で脆弱で、グローバルをもくろむ政治家は次々に暗殺されてゆく。政権交替による小さな国内政治が連続。ちまちまとした政権争いに終始。東アジアまで視野に入れた朝廷と言えるものは7世紀の天武天皇を待つこととなる。