古墳時代の、特に前期・中期という比較的弥生時代に近い時代の古墳は、おしなべてその巨大さと中に埋葬された副葬品の豪華さはリンクしていない場合が多く、初期古墳は、主に畿内以東では「見せることに重点を置く」墓がほとんである。箸墓など、大和の墓は、いきなり巨大なものから造りはじめられるという、いささか風変わりな開始をしている。つまり中身が充実させられない分、外見の大きさに重点を置いた時期が畿内以東の初期前方後円墳である。要するに見せかけだけの「がらんどう古墳」だったわけであるが、このヒエラルキー過渡期の遺物として、弥生時代の銅鐸や、九州でも鏡やらを大きくしていく傾向に同じく、ヘテラルキーからヒエラルキーへの過渡期だった2~5世紀の列島事情をよくあらわす現象である。

 3世紀後半あたりからの初期前方後円墳の内容物は、まだ筑紫のほうが鉄製品も多く、ふんだんに鉄を使うレプリカ(実用品よりひとまわりも大きい鎧兜や鉄剣や金ハサミなどが出る)が副葬品として出てくる。その頃の大和・畿内の墓は、ばかでかさはすごいけれど、中身は貧弱で、実用的な武具や鉄器や製鉄用品よりも、祭祀に使う鏡や呪具、みせかけばかりの装飾品、土器のほうが多く、実力を伴っていないことが見てとれる。

 海浜型は、そうした中でも、特に海や河川や湖(琵琶湖や霞ヶ浦、あるいは各地のラグーン湖に沿う)から直接見える場所、高さを選んでおり、現在ではそこは森林となっていることが多い。これを「森つき自然保護林」の墳墓とも言うが、こんもりとして船からのよい灯台の役目も果たした。権威的墳墓である。これはやがて前方後円墳や巨大墳墓が衰退してゆくわが国のヒエラルキー願望によって形成された古墳時代というものを、実によく象徴した事物、現象である。

初期大和は、このように「中国に朝貢して認められれば国家」の時代に、他地域の眼をかいくぐり、どさくさにまぎれて、いつのまにか「国家」になっていた運のいい国だった。先住海人族を手名づけて、いいように案内させたうえで、彼らを捨て去り、差別し、いつのまにか大王家を担ぎ上げて東アジアにデヴューできた地域であることが想像できる。まことに運がいい。その時期が三世紀、つまり卑弥呼までの時代だった。まさに生き馬の目を抜くようにして倭王、倭国を詐称して、しらっと乗っ取ったわけである。最初は吉備・出雲が牛耳り、やがてまた別の王家がそれを転覆させ、何度かの政権交代の末に、7世紀に古墳終末期を迎えると同時に、大和朝廷なるものが飛鳥藤原に出現。藤原とは葛の井原という地名を良い文字に変えた地名である。






そうした眼で、前記事もながめてみてください。