昨日の日本国号記事に関連して書き忘れたのだが、「倭」という言葉は1世紀中盤に中国が日本に名づけた国名である。記録では九州北部の奴國からの使者の来訪によって、「おまえたちは何者か?」の問いに答えて「わ」つまり「わたし」であると答えた結果、多くの蛮族がそう名づけられたように「わ」とされたのであろうと考えている。

こうした例は過去、非常に多いと思う。
国内でも、アイヌの「あ」は吾れという意味である。
西欧諸国が名づけた国々でも、「わたし」が通称国名にされた例は多い。





さて、その日本国名は元、日下であっただろうと書いた。
日下とはそもそも草加である。

「ひのもとのくさか」は万葉枕詞であるから、と考察したのは民俗学の谷川健一らであるが、それだけではあるまい。草加は河内の白肩の津=枚方市渚町あたりに饒速日命が到着して天野川を遡った場所から、寝屋川を下ってずっと南下した東大阪市日下であるが、生駒山の西の麓で、ここから生駒越えで大和に入るための玄関でもあった。




そこが河内物部氏の所領であったことは、今もここに天照国照彦天火明櫛玉饒速日を祭る石切劔矢神社(いしきりつるぎやじんじゃ)があるから間違いない。すると草加をなぜ彼等が日下と改変したかは問題になる。単に枕詞だけの理解では物足りないものがあるのだ。

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劔矢神社 上から祭殿、ニギハヤヒ像、劔と矢の屋根飾り



日下で「ひのもと」と読ませるのは、物部氏に原太陽神信仰があったためかと思える。太陽神としても天照国照彦天火明櫛玉饒速日である。この神名にある「あまてるくにてる」とは太陽神でもあり国津神でもあったニギハヤヒが言い表されている。

しかし物部氏が実際に、確かに太陽信仰を持っていたかどうかはなかなか証明が難しくなる。物部氏の神霊は、石上神社では剣の御霊である「ふつのみたま」であり、そこに太陽神を感じさせる要素は見えない。


さて、場所はまったく変わって長野県の松本に安曇氏が祭る穂高神社がある。名古屋、岐阜方面から木曽川を遡ると、なぜか浦島太郎を祭る寝覚ノ床という景勝地がある。この木曽ラインは、天武・持統が諏訪遷都を考えたときに、あらかた完成していたであろう木曽街道になる。そのど真ん中になぜ日下部が日本海の丹後で祭った「水之江の浦 島子」が祭られたかは、日本国号問題と安曇との意外な結論を導き出す。

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寝覚ノ床

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臨川寺浦島廟



つまり天武=大海人は安曇族によって育てられた大和の王族であった。その安曇は壱岐対馬を基点に、筑紫の玄界灘沿岸に蟠踞し、日本海で出雲を経て、拡散した海人族である。記紀神話ではやがて天孫族によって出雲国譲りされるときに反抗して諏訪へ逃げ込んだタケミナカタがこれに相当する氏族だろう。

諏訪から天竜川・木曽川によって南下すれば寝覚ノ床を経て岐阜の「安八間の海」=今の名古屋湾・伊勢湾へ出る。ここは海部氏・尾張氏のメッカである。尾張氏は物部氏と大和・紀州では同族である。

また大和で、倭直氏の祖人に、浦島にそっくりな姿の海人ナビゲーターである椎根津彦がいる。神武のナビゲーターである。同様に伊勢には猿田彦というこれまた海人らしき男が存在する。これも天孫のナビゲーターである。

物部氏、安曇部、尾張氏、海部氏、日下部氏、倭直氏・・・いずれも早期大和帰順者であり、神武と深い関わり方をする氏族である。いわば邪馬台国構成員?


彼等は縄文系海人族先住民である。


大和王家を常に助ける役目を担っている。
神武をナビゲーションした椎根津彦は倭宿禰(やまとのすくね)で大和神社祭祀者氏族。その姿は浦島太郎にそっくり。

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京都府宮津市 元伊勢籠神社の別名宇豆比古・珍彦 「うづ」は海流であろう。




神武を熊野で助けた尾張氏の祖人高倉下。
彼の持っていた天ムラクモ剣。
それは物部氏の剣である。



ヤマトタケルに草薙剣をさずけた宮簾姫は尾張氏の娘。
その「みやず」が地名になっているのが浦島神社のある宮津市伊根町。



そこにあるのが天橋立と海部氏が祭る籠(この)神社。

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籠神社の亀池

ここは元伊勢とされ、なぜか倭宿禰像があり、倭直=日下部あるいは海部?国宝海部氏系図を保管している。


海部氏と尾張氏は同族。
宮津の浦島神社を祭るのは日下部氏。
その「くさかべ」を名にした親王草壁は天武の長男で、夭折。文武に天皇が回る。



さて、
「くさかべ」である。

日下部はつまり安曇と関わる氏族だ。

太陽信仰は壱岐にいけば安曇のものであったことがすぐわかるはず。

その太陽神が天武・持統によって伊勢に祭られアマテラスという女神になっている。
その土地を譲ったのは猿田彦の後裔海人太田命である。


さらに、天武以後、安曇の太陽信仰は、同じ玄界灘の宗像氏によって沖ノ島で祭られはじめる。時代は天武に嫁を差し出した宗像君徳善の時代からである!!


このとき同時に、宗像三女神はなぜか八幡信仰のメッカである宇佐神宮の本山・許元山に降臨し、宇佐で日女神と合体している。

椎根津彦は『古事記』では豊後水道で釣りをしていたとあり、『日本書紀』ではそれは垂水の瀬戸だったとされる。豊後水道には椎根津彦神社があり、兵庫には五色塚古墳がある。

そして日下部の大元は熊本県南部の草部吉見神社であるとも言う。
神武・・・南九州・・・豊後水道・・・宇佐・・・岡・・・瀬戸内・・・兵庫ー物部氏兵器庫・・・五色塚・・・草加江・・・熊野・・・伊勢・・・天武・伊勢・・・

さあ、ここまでくれば『日本書紀』のやりたいことがほとんど見えてくるのでは?


聖徳太子ゆかりの孔舎衙。
これが草加江である。
ところがこの地名、福岡県にもある???
なんと武内宿禰がからんでくる。



続きは、いずれ会員制で。


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