天孫降臨の地として記紀は筑紫の日向の高千穂のくしふる峰と書く。
その場所については諸説あり、九州王朝説は福岡県の日向峠をそれに当てる。
しかしここは「ひゅうが」でも「ひむか」でもなく「ひなた」峠と呼ばれている。



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日向峠 ひなた・とうげ

宇土庚申神社http://sora07.exblog.jp/22265688
福岡県糸島市(旧前原市)高祖

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「宇土神社 高祖の内宇土に在り。元山の神社とも云ふ。祭日十月十七日。」
社格, 不詳. その他社格. ご祭神, 不詳. 由緒等, 不詳
位置http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?bbox=130.2758929622479%2C33.53140657018716%2C130.28312419775202%2C33.53761305103986&id=undefined&cond=p%3Asc113%3Blat%3A33.53475580%3Blon%3A130.27950858%3Bei%3AUTF-8%3Bv%3A2%3Bsc%3A3%3Bdatum%3Awgs%3Bgov%3A40230.55.113%3Bz%3A18%3Bs%3A1334502178d65ec9f6f8fe93cf499f736529929db4%3Blayer%3Apl%3B&p=%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E5%B8%82%E9%AB%98%E7%A5%96113&zoom=18&lat=33.53419238723962&lon=130.2803025138689&z=18&mode=map&active=true&layer=&home=on&hlat=33.53415661487704&hlon=130.2802864206143&ei=utf8&v=3
ただし同名神社総社は三重県鈴鹿市にあり祭神は猿田彦。庚申とは猿田彦の別名で、行人を導く道しるべのこと。あるいはやってくる魔を妨げる塞の神も同じ。この神社は天孫降臨を先導し、やがて伊勢へ向かった猿田彦のルートそのものに造ってある。

日向峠のあるこの地を「高祖」と言う。高祖とは前漢の劉邦のこと。あるいは転じて日本では天武天皇、あるいは皇祖である。地名「ひなた」は全国どこにでもある日光が差し込む地形由来の地名。

「宇土」は熊本県中西部の地名。葦北・八代地方。阿蘇ピンク石産地。おそらく日向峠のこの神は、宇土から持ち込まれたか?とも思えるが、三重県の総社がすでに宇土であるので、これは道教の「木」すなわち「宇宙の」「樹木」「神木のある」「神の土地」が正解か?聖地。
ただ、高祖地名は『日本書紀』では始祖天智につぐ二番手の地位である。


結論
ここは記紀天孫降臨から後世作られた場所である。





一方宮崎県の日向峠は高千穂峰や笠沙からかなり離れた日向市に存在し、むしろ高千穂町に近い。


宮崎県日向峠(ひゅうが・とうげ)
日向峠(馬ヶ背)日豊海岸にある。
宮崎県日向市細島
http://www.joyphoto.com/japanese/travel/051119/hyuga.html
位置http://www.mapion.co.jp/m2/32.42273989,131.68473796,16/poi=L0652228
結論
場所的に笠沙と美々津よりも北側にあって、鵜戸神宮よりも北で、こことは考えにくい。



これでは日向説と福岡日向峠説のどちらとも決められない。

一般的には最も信頼性が高いのは鹿児島県霧島連山の高千穂岳と宮崎県高千穂町の祖母山が「くじふるのみね」にふさわしいと思われているようである。




記紀が主張する天孫降臨の山
筑紫の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」記・紀
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)



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候補地第一番手の霧島連山


 
日向の高千穂とは鹿児島県姶良郡霧島連山の高千穂峰。
「くじふる」とは「奇し降る」で神々しい天孫の降ってきたという意味。
候補 名前からなら「くじうさん」=久住山、地理的には高千穂岳、伝承なら宮崎県高千穂町に隣接する祖母山。

「韓国に向かい」は「韓」は当時、韓国ではなく広く東アジアのことだが、笠沙の岬は太平洋に面しており東アジアの大陸や半島には背を向けた位置にある。
すると日が差して韓国に向かうの意味は、霧島連山の活火山・韓国岳(からくに・だけ)であろうと推定できる。この部分削除。
訂正→東シナ海に面して朝日も夕日もよく当たる場所であるから、まさしく記紀開設にぴったりあてはまる。天孫降臨はここで間違いなし。



東隣が高千穂岳で、頂上に天の逆戈が刺さっている。ここしかあり得ない。北部に高原町、宮崎県小林市。ここからならすぐ南下すれば阿多、大隅へ、錦江湾、桜島へ出られる。笠沙(かささ)岬は少し離れた西南海岸にある。


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韓国岳


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おそらくこのロケーションを記紀は想定してある。





なぜ神武は南九州を出て宇佐と岡に立ち寄るか?
理由は明確。


宇佐は吉備と同族、兄弟であると『宇佐八幡宮託宣集』及び『吉備津彦神社社伝』にある。神武の当初の中継地は吉備を想定しており、これは記紀で吉備氏と葛城氏が合体して先に大和で王権らしきものを作っていたことに合致。さらに考古学的には纏向遺跡から弥生時代の貝輪を切り剥ぎしたデザインである弧文円盤が二枚出土。葛城の宮山古墳からは、吉備弧帯文、纏向弧文をアレンジした直弧文のある盾埴輪が出土している。この直弧文はやがて大伴部の靫負氏族がステータスとして九州南部~北部に守護に入ったときから古墳で多数出土する。これは大和の靫負(ゆげい)氏族がそもそもその出身を筑紫の肥後以南に持っていたからではないかと想定する。具体的氏族は大伴部、日下部、的臣(いくは)、刃連(ゆぎ)連らが記録にある。




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岡は往古「おが」で、やがて「おんが」と変化した地名で、場所は今の遠賀川河口部の古賀である。周辺の弥生遺跡からは半島系渡来の骨格と遺伝子を持つ遺骨が出ている。一方、神武が最初に江南から移住したであろう北西部菜畑周辺からは江南系中国人の遺伝子を持った人骨が出ている。葬送風習としてこちらは甕棺墓、遠賀方面では支石墓、方形周溝墓が出る。さらに篠原健二ら遺伝子学者の分析では、菜畑の倭人は縄文人と混血があり、遠賀川倭人ではそれがほとんどないこともわかっている。

遠賀川式土器は弥生時代に最速で東北日本海側へ類似品を創作させており、瀬戸内海では摂津や久宝寺遺跡から出てくる。これは神武よりも先にニギハヤヒが大和に入っていた記事に合致する。


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貝輪渦巻き~弧帯文・弧文への移動コース
北部九州が現物の貝輪が出るに対して、貝の現物が入手しにくい遠隔地の吉備や大和や摂津では、それの形状を模した遺物やデザインが代用されていることがわかる。




「天孫にはいくつもあるのだ」
神武がニギハヤヒの舅である長髄彦に言った言葉である。
上記考古学的検証結果は、幾種類もある天孫を確かに証明している。
つまり神武はあきらかに江南の長江流域から東シナ海をダイレクトに五島列島にたどり着き、菜畑周辺に入って混血した氏族の伝承から生まれた人物像であり、東征する前に、記紀が天孫はまず日向に降りて地元の吾平津媛と婚姻するという記事があるように、菜畑から南下して時間を経過したために、遠賀川から北上したニギハヤヒよりも大和到着が遅れたという記事に合致する。

検証結果
記紀が書いたとおり、「天孫には少なくとも二種類があったのだ」という結果が出た。
またこれらを総合すると、神武天皇のモデルは菜畑から南九州へ二回目の降臨をし、それを天孫降臨だとしてあることがわかる。一度目の降臨は菜畑周辺であろう。そのまた大元は長江。中国系である。それが南部吾平の氏族・・・おそらく葛城族=内の氏族と混血して神武は生まれ、そこから太平洋を北上したとしてよいように思う。なんとなれば内氏族の祖である武内宿禰には「黒男神」という別名がある。宇佐では黒男神の姿は隼人そのものとなっている。

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葛城氏同族の紀氏の居住地痕跡は神武・応神・ヤマトタケルの東征コースを網羅する。





黒男神社(宇佐八幡宮・薦神社の摂社)
祭神 武内宿禰

「一方、『書紀』は黙して語らないが、風土記や神社伝承を尋ねると九州北西部にも景行天皇の足跡が濃く残っている。『肥前国風土記』には佐賀県の武雄市を取り囲むように22ヶ所に景行天皇の足跡がある。この武雄市の中心には神秘的な形状をした御船山があり、その中腹に武雄神社が建っており、武雄心命が主祭神として、武内宿禰と共に祭られている。すなわちここにも実名の名残がしっかりと存在しているのだ。
また、武雄神社から北西約六kmのところに武内町という名称が残っていて、そこには武内神社が建っている。
さらに、全国的にも珍しい、武内宿禰の母、山下影姫が武雄神社から北北東約三kmの朝日町黒尾に黒尾明神として祭られている」http://www.geocities.jp/shoki_otoku/

黒尾神社
宮崎県都城市
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/shimazu/cultural/kuroo.htm
旧愛宕神社

このように黒男神とは九州では武内宿禰を指している。であるので、武内宿禰の子孫たちはその大元をここ九州南部に求めることが可能である。

近畿地方では、
長等山園城寺 滋賀県 の伝承によれば
三尾明神社
「南院琴尾谷にあり。 五社鎮守のその一なり。 長等南院の地主神なり。 例祭三月中の卯の日。 神輿三基。 本地堂には普賢菩薩を安ず。 祭神赤尾・黒尾・白尾の神なり。 赤尾を本神とす。 この鎮座は太古にして知る人なし。 白尾は大宝年中に現じ、黒尾は神護景雲三年三月十四日、湖水より現ず。 その古跡を大波止という。 社伝にいわく、 赤尾天照太神、黒尾新羅太神、白尾白山権現。」
とある。http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/MIO.html

ここでは黒尾神は文殊菩薩の姿で顕現したとされるが、第三番目の地位にある。またこの三尾明神という名は鉱物地名であろう。尾=へび=鉱床のある台地。黒尾神は称徳天皇の神護景雲三年(七八九)三月十四日(第二の卯の日)の出現とされている。
さらにこれが継体の母方の三尾氏とどう関与するかは今後の問題である。園城寺は比叡山から分かれた天台別派であり、新羅明神を祭る。そのわけは近江南部に渡来系氏族が多かったからである。その氏族は新羅に限ったことではなく、新羅は代表であり百済や高句麗の王族の家臣団と部であっただろう。

新羅明神は彼らの出身地をそれぞれ思って作られた半島の神だと言える。渡来人専用の民間信仰である。園城寺をひとびとが親しみをこめて「みいでら」はん、と呼ぶが、「みい」は「三輪」「巳」である。これは紀州の三井寺を紀三井寺と呼ぶように、園城寺というものの信仰の本来神道への親近感、回帰思想であることを示す。習合とも言えるか。あくまでも民間信仰である。

武内宿禰氏族は熊襲のうち隼人の曽於族を擁して太平洋から北上し大和へ入るのだろう。このとき岡には朝鮮系の応神のような王がいたはずである。彼らは応神王の片腕となって大伴氏や物部氏とともに吉備を目指し、吉備氏と合体、最終的に大和へ入り、先住していた縄文系氏族を帰順させたのだろう。これはつまり内臣氏族や吉備氏族たちが神武伝説を持っており、それが大和で別氏族連合によって政権を奪取されたということではなかろうか?それが雄略紀などに反映したか?

神武の東征と応神の新羅からの帰国は、そういうことを分離して別にしたものかも知れない。またヤマトタケルのコースもまた、逆向きではあるが、帰国するときのコースは出雲・吉備によってから大和に戻り、次に太平洋コースを筑波まで進んでいる。
これらのコースが、類似するのは、まずそこに先住した有力氏族がいて、しかも彼らが武力のための鉱物資源を握る氏族だったためだと推定できる。



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