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“海柘榴市之(つばきちの) 八十衢尓(やそのちまたに) 立平之(たちならし) 結紐手(むすびしひもを) 解春惜毛(とかまくおしも)”
(訳)海柘榴市の数多い街路でふみならして、歌垣をした時結んだ紐を解くのは惜しいよ
(日本古典文学全集(小学館 昭和48年12月10日初版)、訳者:小島憲之、木下正俊、佐竹昭広)




 
☆八十の衢・・・チマタは道の股。海柘榴市(椿市)は、四方八達の地であった。
☆立ち平し・・・「平す」は平らにすること。大勢の男女が地をふむことを表すが、その動作にはもと呪術的な意味がある。
☆結びし紐・・・「日本書記」武烈前紀に、海柘榴市で歌垣が行われたことが見える。
☆歌垣・・・・・多数の男女が特定の場所に集って、飲食、歌舞し、乱交した遊びをいう。この「結びし紐」は、その時に接した相手と結び交わした紐。
引用者注・・・歌垣(東国では嬥歌(カガヒ))は古代における集団見合い形式でもあったのだから、「乱交」よりは「情交」くらいにしておいた方が適切なのかも知れない。
☆海柘榴市(地名)・・・今の桜井市。大和国磯域郡、今三輪村大字金屋の地、島見山と三輪山との間。上代、歌垣の風習の行われた土地として名高い。
 




「聖徳太子ゆかりのある興隆寺(四天王寺、現在の名称、椿市廃寺)のある、すぐ前に、八十の衢の如き、多くの道が交差する地域に椿市があり、この交差点に隣接して、椿市小学校がある。最近、この万葉集の歌碑を小学校横に立てたが、「歌垣」の意を解するならば、どこか他の場所の方が・・・と思う人もいることだろう。椿市廃寺に誰がしたのか。なお、聖徳太子ほどの人物が出自不明とはおかしな話です。どこの馬の骨かわからなかった人物ならいざ知らず、実際に不明ならば、年令も不明であるはずなのだが、49才で没したということは、生まれた時が明らかであるということであり、大きな寺がないが、地名が残っているのと同様、意図的に消した証拠でもある。」








「海柘榴市は「つばきち」または「つばいち」と読み、奈良県桜井市の三輪山の南西に所在して開かれた古代の市である。『日本書紀』と『万葉集』にいくたびも登場して、大きな政治的事件やあるいは歌垣の舞台となり、古代の市としてはもっともよく知られた名前かもしれない。

    ●八十の衢の海柘榴市

 万葉集には海柘榴市の歌垣の歌として3首が載る。

 海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963)

 紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115)

 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116)

 「八十の衢」とは、多数の道が合流した地点をさす。八十の衢である海柘榴市は、物品を交換したり商う市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれた他に、さらに刑場となったり、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われた。

 人が集うばかりでなく、言霊や精霊が行き交う非日常的区間であり、祭祀も執り行われたという。このような場所には聖なる樹木が植えられ、地名となった海柘榴もシンボリックな意味が込められたという説もある。

 海柘榴市があった所は、大和高原に水源を持つ大和川(初瀬川)が初瀬谷を下って奈良盆地に流れ出る地点である。大和川は、奈良盆地を潤す最大の河川であり、灌漑とともに近世以前には水運にも利用されていた。古代にあっては、大和と河内、摂津を結ぶ重要な交通ルートであり、難波津に上陸した外国の賓客やヤマト政権の要人が河船を利用して三輪山を仰ぐ宮との間を往来しただろう。海柘榴市は難波津の内港として、大和と大陸を結ぶ海のルートの終着点にして起点でもあった。

 陸のルートにしても、盆地の南北と東西を貫く基幹街道が十字に交錯する地点であった。7世紀始めの推古朝には河内と明日香を結ぶ直線の大道、横大路が設けられるが、それは海柘榴市を通る東西の街道をなぞるコースであったし、東を向けば初瀬谷を抜けて伊勢、さらに東国へ通じる主要ルートがその延長上にあった。

 南北には上つ道となった街道が早くから開かれ、石上や春日などの盆地東部の要地を結び、さらには山城や近江へ至るルートとつながった。南へ向かえば、山田道となって明日香へ入る。その先には巨勢道が伸び、さらに紀ノ川沿いの紀路が続いた。

 海柘榴市が正史にいくたびも登場することになったのは、もちろんヤマト政権の王宮が何代にもわたって周辺に置かれたからである。実在が確実視される最初の天皇、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみつかきのみや)は、志紀御県坐神社付近に比定されるので、まさに海柘榴市があった場所である。欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)も海柘榴市の所在地に重なる。」








海石榴市(つばいち)は「つばき」とも読ませることがある(『日本書紀』)。
『豊後国風土記』にも「海部の郡、海石榴市(つばいち)」が出てくる。今の大分県佐伯市の海岸である。






これでやっと気がついた。
あの花は椿だったのだ。




四弁に見えた花びらは、わが庭に咲く侘び輔の花のように、六弁がかさなった姿なのではなかろうか?


椿は神社などでもよく植えられており、全国に椿神社はある。
常緑樹で、葉はクチクラ層におおわれ、日の光を受けててらてらと輝く。
まさにとわの命の再生を示す樹木だ。



街道の交差点や三叉路には、時代別、また地域によってさまざまだが、江戸時代関東では榎、奈良時代大和では椿が植えられた。聖なる三角地点には聖なる樹木が植えられ、旅人の無事の帰還を密かに守った。


死生観の指標となる樹木だ。




しかし聖徳太子と椿にどのような意味づけを古代人はしたかったのか?




想像するしかないが、おそらく太子という、過去なにがしかによって不幸の死をとげた古代人のイメージから生み出された「魔物」に、この花はふさわしかったに違いない。それは鎮魂であり祟り封じでもあろう。

そう、聖徳太子もまたある種の祟り神なのである。



物部守屋を祭った四天王寺に、椿市廃寺があったというのなら、さしずめそこは椿の花をこよいなく愛した人物がもともと祭られていたのかも知れぬ。いや、あるいは、守屋自身がその花と常緑をこよなく愛したからここだったのかも知れぬ。

やちまたは、あらゆる人々が往来し、そこから分かれていくところである。まさに運命の交差点が海石榴市だった。



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