春雨が続くのでせんかたない。
暇つぶしのテレビも面白くもない。
かと言って、しんどい作業になる摩多羅神その2にとりかかる気にもなれない。
ちょっと気分転換記事を書くことにするか・・・。



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多胡碑とかぐや姫の不思議な関係



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多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」[1]と総称される。また、書道史の上から、那須国造碑、多賀城碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。建碑は、その内容から8世紀後半とされる。

●1 碑形


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中国・西安陵墓『乾陵』石碑



唐代石碑様式の碑形である「蓋首 截頭 四角錐台(蓋石とも)」である。
「がいしゅ・さいとう・しかくすいだい」は碑石を四角に切り出し、頂上を四角の切り口のまま、首元が四角錐に、つまり台形になるように削られた基礎石に、四角い蓋石(笠石)を乗せた様式で、日本では奈良時代和銅の頃の墓誌にいくつか採用されている例がある。



対して多賀城碑の様式は首元を丸く削り蓋石を乗せてある「円首えんしゅ」形式である。
 明治大学 小笠原好彦 「日本古代の墓誌」を参考に編集

ネット上には石碑の金石文の書体などについては諸研究があるが、碑形については全くないため、あえて書いた。また、筆者の知己に、この碑形をペルシア紀元でギリシアのヘレニズム文化で花開いた「エンタシス」と捉えている人がいるので、あえて、これが唐様式の四角錐形であることを書いておきたい。エンタシスは柱の中腹やや下段部分をふくらませて強度を強めるが、多胡碑は碑胴部はあくまで直線的に切ってあり、首元からのみ削ってあり、あきらかに様式は別であることを書き加えておく。

●2 金石文
さて、碑文であるが、以下のように彫られている。

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

弁官局からの命令 上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に
支配を任せる 郡の名前は多胡郡とせよ これは和銅4年3月9日甲寅
に宣べられた 左中弁・正五位下多治比真人
太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊

●3 材質
同時代の金石文に比して文字の大きさが非常に大きいのが特徴で、素材は、表面は風化しやすい砂岩条安山岩(牛伏砂岩)であるが、内部の基層は固い花崗岩質の安山岩であり、耐久性は高い素材である。表面がやわらかいゆえに大きな文字を刻む必要があったとこれまでは考えられてきたが、そうとは限らないかも知れない。

●4 概要
碑身は高さ125センチメートル、幅60センチメートルの角柱で6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25センチメートル、軒幅88センチメートルの方形造りである。台石には「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できない。材質は近隣で産出される牛伏砂岩であり、地元では天引石、多胡石と呼ばれている。

文字は一辺が平均7~9センチと大振りである。これは多賀城碑などと同様に、在地で石碑を作ったであろう「羊」なる人物が、奈良朝廷から領地を頂戴できたことを顕彰して自ら刻ませたものであろうから、あえて見るものに碑文が迫ってくるように、大きくしたのではないかと平川南は推定している(『出土文字に新しい古代史を求めて』2014)




● 5文章各論
1 羊
これが果たして人物かどうかだが、多胡の土地を「給す」とあって、まずは人でなければなるまいが?奇妙な「羊」という名についてはさまざまな憶測があるが、地元伝承にある「羊大夫 ひつじだゆう」なる空想上の?人物があり、おそらくこの人かというのが有力なのだが、「給羊」を「羊に給う」ではなく、漢文の読みどおりに「羊を給う」であるなら、土地を与えて羊を飼わせただけになってしまう。定説の読み方でも解釈次第では、「土地を家畜の羊用に郡衙に与えた」とも解釈できる。だとすれば多胡碑は酪羊牧畜発祥の碑となるから面白い。朝廷でジンギスカンパーティでもやる気だったのか?タジヒさん。(多治比氏)ユダヤ人も羊は大好きだが。
羊が人名ではない説は捨てきれない。

しかし多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。郡衙とは郡の役所の事である。多胡碑と性格が類似する多賀城碑が多賀城南門の傍らに建っていた事から、多胡碑も多胡郡衙正門付近、つまり建碑当初からこの地に存在した可能性が高いと考えられている。

8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。とWiki多胡碑にある。つまりこの地の郡衙として羊なるものが就任した、その顕彰碑と考えるのが最良かと思えるのだが?しかしながら定説の漢文読みにはかなり疑問があるままだ。


●7 羊大夫とは?
名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)

上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)
以下はWiki羊大夫に譲る。




羊太夫伝説はどうも「給う羊」の深読みしすぎからの空想物語だろう。それと小幡氏ならばそれは宇治の木幡地名の氏族なので考えうるのは木地師の頭領かあるいは古くから巨椋池にいただろう秦氏出身者とも考えが及ぶ。羊を食べたとするならチーズも作るだろうし、乳酒も作るから、広く遊牧系の渡来人じゃああろまいか?醍醐天皇は酪から蘇を作りなめなめしていたというので、うまい味のことを醍醐味などというわけだが、なるほど秦人らがチーズを作った可能性はあるなあ・・・。スキタイやモンゴル系なら羊は常食だ。となると多胡は日本最初の酪農だけじゃなく、チーズ発祥の地でもあるか?これはすごい。柴又の寅さんもよく言っていた「はい、バタ~~~」









ここでは従者だった八束脛同様に問題にしない。これらはすでに以前ここで検証した覚えがあるので検索されたし。

ただ北海道に羊蹄山という山があり、それとのかねあいを考察されたネット管理者もおられるとだけ書いておく。
連想ゲームで解く多胡碑の謎http://www.geocities.jp/yasuko8787/80327.htm


●8 多胡地名
これは明確に渡来系工人らがここに多く入れられたゆえの地名であろう。胡とは広く外国人を指す文字になる。上野国西部は吉井窯などの渡来系窯業の痕跡が多い。そもそも北関東全域は非常に朝鮮系渡来の多く入っていた土地柄である。それは多くは朝廷を経由しない単独亡命者だったと考えられ、工人・芸能者らが中心である。その点は、中央が敗北した百済王家や高句麗王家縁者を正規に受け入れて分散居住させた歴史とは、あきらかに違った事情で増加したのだろう。その証拠は万葉集に異常に多い東歌の数や、先の窯跡の多さ、さらには繊維産業や焼き物、その他技術による産物の木簡の多さ、あるいはまた漢文の模写による手習い文字のある木簡の多さなどから、彼らが日本語や万葉文字表記に非常に熱心に取り組んでいた姿勢が見えることからも、単騎来訪者が中央に教えられるわけでなく必死に習得して和風に溶け込もうとしたのだと見えるからである。



「日本列島に石碑が立ち始めるのはだいたい7世紀頃からである。それ以後、9世紀前半までの間に現在知られているかぎりでは26基が建てられ、17基が現存している。」(同上 平川)
羊なる人物はその渡来人たちの頭領的人物だっただろう。

また、多胡には多くの蝦夷俘囚も入れられた記録があり、地名にも俘囚郷が碓氷郡など三郡にある。蝦夷の技術もまた匠としてすでに優秀であり、簡易製鉄などにも秀でていたことは明白である。彼らは渡来工人たちと和合して、さらに職人技術を盛んにした結果、北関東や東京都の隅田川周辺に今でも多くの中小手工業や繊維産業、あるいは埼玉の印刷業などの職能集中地を生み出したと想像できる。養蚕については南関東の神奈川の港へとそれらが搬出され、ここから海外へも流出していったと記録がある。関東の物流はすでに当時から、できあがっていたわけである。



● 飛躍論
さて、この項で問題なのは、碑文最後にある中央官人たちの名である。

左中弁・正五位下多治比真人
太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊

実在の人物であるが、気になるのは、どうもこの名前の一群に聞き覚えがある。
そのことをネット友も鋭く指摘しており、それはもしや「竹取物語」に登場していた五人の結婚相手の本当の名前ではないか?というのである。



「ところで、前回の記事の 「多胡碑」 の碑文には、(左中弁正5位下)多治比真人、(太政官2品)穂積親王、(左太臣正2位)石上尊、(右太臣正2位)藤原尊、という4人の名が記されてあって、その4人の名は、『竹取物語』 の登場人物の名と同じ、或いは、連想させる名です。

石上尊 = 石上麻呂、多治比真人 = 石作皇子(多治比嶋)、藤原尊 = 車持皇子(藤原不比等)。

穂積親王 については、【暗号「山上憶良」】 に、その妻が大伴坂上郎女だと書かれてあり、『竹取物語』 では、大伴御行 という名の人が登場しています。

「多胡碑」 の碑文と、『竹取物語』 が、同じ時代背景を持ってつくられていて、それらの名は、その時代に、とかくありがちな名であった ~ ~ というようなことがあるのかもしれない、という風にも思いますが、何と言うか・・・・その時代に於いて、富士山と言えばかぐや姫、又、多胡碑と言えば富士山、という、そういう観念のようなものが存在していたのではないか という、そういう想像が、今、私の頭の中にはあるのです。」
重陽の節句を祝う かぐや姫と富士山 http://blogs.yahoo.co.jp/mizunoene17/46084103.html?type=folderlist


なかなか鋭い視点ではないか。
かぐや姫のお話では、求婚者たちにさまざまの難題を吹きかけていく、いわば求婚謝絶ノウハウ書のようなところがあるが、その中のひとつに、なぜか突然、東国の富士山まで行く話が出てくる。


帝は ー ー大臣や上達部を呼び 「どの山が天に近いか」 と尋ねると、ある人が 駿河の国 にあるという山だと言うのを聞き ー ー かぐや姫 からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つき(調)の岩笠 という人(月世界への思いを表現する仕事に相応しい氏)を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。

その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「富士の山(士に富む山)」と名づけた(不死の薬を燃やしたから「不死の山」だろう、という読者の予想の裏をかいている)。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。また、その時に山頂に積もっていた雪が決して溶けることがなくなった(万年雪)ともいう。


富士山には大山積の娘である木花咲耶姫が祭られているわけだが、古代の記録にはなぜかこの名山が全然出てこず、平安になってようやく和歌などで山ほど登場し始める。古代で山といえば『隋書』の阿蘇山、記紀ヤマトタケルの伊吹山・筑波山くらいのもので、東日本のことはまず記録がない。それは奈良朝廷の東国開発の遅れのせいだろうから納得できるが、富士山にはすでにこの極めて九州出身、四国経由の山の女神が祭られているわけで、その担い手は南九州海人族だろうとすでに書いてきた。つまり竹を持ち込む人々だった大隅隼人のことだ。それが鹿児島の霧島山から瀬戸内海大三島で大山積を祀っている。彼らは尾張氏と非常に深く関わったらしい。その尾張氏は日本海側と関東まで勢力を伸ばしている・・・。そういう考察から、富士山に木花咲耶姫も祭られたのだろう・・・という考察であった。

ところが渡来人であろう羊の多胡碑には、その竹取の求婚者の名前があり、彼らが実在していた中央官人であり、さらにどうも時の権力者だった藤原不比等に関わる氏族たちではないかと。

車持君というのはあきらかに群馬県にいた氏族で藤原不比等の母親の出身氏族でもある。「くるま」がなまって「ぐんま」になったのは間違いあるまい。車持とは名前のとおり貴人・王族の乗る牛車の舵をとる名誉ある氏族である。群馬県の綿貫観音山などの豪華な古墳群のことはすでに考察しているが、どうも出土物の埴輪などが「これは紀氏ではないか?」と感じさせているのだが、その中央紀氏と隼人に関わるのが京都南部の竹の名産地綴喜郡だった。関西以東以北へ、自分では種を飛ばさない南方系植物の竹が、どうやって日本各地に広がるかというと、どうも彼らが竹製品を作る名人だったことから、隼人や紀氏などの海人系氏族の手になったのだと筆者は推定しているわけだ。

すると駿河の富士山の情報も、彼らによって中央へ聞こえていただろうとなる。




ところが富士山の駿河周辺がまた渡来系のオンドル式のある遺跡なんぞが山ほど出る土地柄で、大生部の多などというどうも渡来部民が記録に出てくる。そもそも富士山や浅間山などの高山がここに多いのは、伊豆半島の仕業である。インド亜大陸の衝突でヒマラヤが隆起した事件のミニチュア版衝突劇が大昔にあったわけだが、すると伊豆半島にはもともと南洋系の植物が繁茂しており、それが富士山界隈でも繁茂したわけであろう。伊豆名産の明日葉なんぞといううまい野草もそういうことである。小笠原に竹が自生していたかどうかは知らないが、少なくとも黒曜石は縄文時代から東京湾周辺の遺跡から出る。つまり交流はあったのだ。

そこへ南から隼人やらが舟でやってくると、蝦夷はいるわ、渡来は来るわ、海人族はくるわで人種の坩堝となるわけだ。みんな貴族・豪族などではなく部民である。これが北関東職人文化の大元になったわけだ。どうしたって東国は中央からは僻遠で、あまり相手にされない。だからなんとかしたい。そういう中から平将門、藤原秀郷などの豪傑も出るわけである。当然、振り向いてくれない長い時間への焦燥感はつのるだろうから、アイロニーに富んだ『竹取』が書かれる歴史的風土は充分あるわけだ。富士山なら日本一空に近い場所で、星や月にも行けそうだ。かぐや姫が天上界へ帰るならまずは富士山のてっぺんから・・・。となるわけだ。


ところで話は違うが、地元静岡県では、富士山の中腹には「かぐや姫」なる場所があるんだと・・・





これは知らなかった。ケルトには大地に巨大な白馬を描いた場所があるが、ちょうど駒ケ岳の残雪が馬の形になるのによく似ていたりするのだが、これはまさに富士山が作り出した偶然の造形。しかし、往古の人も知っていたとすれば・・・。
南こうせつが結婚してすぐ新居をここに構えたことがる。もしかするとここにかぐやがいたからか?!


話を元に戻そう。
平安時代には関東や東北や南九州もだいたい帰順が済んでいて、どこも蓬莱世界にはふさわしいまだ未知の土地で、ファンタジーの舞台にふさわしい。今で言うならまだ行ったことがない新しいエキゾチックな観光地といったところだろう。あの山が少ない中国人旅行者も富士山には登りたがるのだから、相当魅力的だったはずである。

江戸の人々は、富士山講なんぞを考え付いて、西はお伊勢さん参り、地元じゃあ富士山詣で、あるいは高尾山詣でなんぞに興じたのだが、必ず出発の前に今の築地あたりの大山に参り、隅田川と荒川の合流する三角州で体を洗って精進潔斎してから出かけるのが習慣だった。だいたい古代から三角形に突き出した地形はそういう聖地になってきた。中央から見れば東国はまだまだ埒の外の「げこく」なわけで、そんなには知識はないが、さすがに美保の松原、田子の浦、富士山などは話に聞いて知っていたはず。万葉歌人なんかはそこまで行かずに和歌を詠んでいるような怠け者が多いが、左遷されたり、旅行趣味のものはそこまで行ってしまうから旅行ガイドみたいなものである。それを和歌にして、宮中ひまじんたちは空想の翼を大いに広げたのだろう。なにしろ税さえちゃんとくれるなら、あとは政治なんかほったらかしの時代である。和歌をグラビア代わりにして遊んでいる。それを竹取作者は皮肉っているのである。

筆者は以前、竹取作者は紀貫之ではないかと推定している。紀氏は東国へも部民が行っているので、知識は充分だし、紀氏自身が飛鳥・奈良時代から大伴氏同様、中央政界では不遇である。かつては大王家の宰相にも匹敵した葛城氏族だから知識や教養や地理には詳しい。文才、筆才のインテリをたくさん出している。当然、駿河方面にも知識がある。四国では既得権益で大もうけして私腹も肥やしたのが貫之である。これは記録にちゃんと、土佐帰りには海賊が恐ろしいと言ってびびりあがっていると書いてあるから間違いない。その金で余生は旅三昧して、言いたい放題小説にしてしまえ・・・は充分にある。だから竹取物語の作者は匿名である。それに貫之は多胡碑より100年ばかり下がる時代の人なので、充分に多胡碑の内容を知ることもできたし、藤原氏によって土佐へ左遷されたから動機は充分である。そもそも彼は女性のふりをして土佐日記をものするほど、そういう気があるような人だから、恨みの心も強そうだし。

面白い。いや、作者が羊だったとしても面白いし、彼が関東藤原氏を名乗ったとすればなお面白い。中央四家には心ならずもうらみもあったことだろう。それに羊の蹄が名前になっている羊蹄山と富士山と浅間山の▲地帯も面白い。羊が秦氏だったらなお面白かろう。

騎馬で奈良と多胡を瞬時に往復できたとか、八束脛はそれを走って追いかけることができたとかは、宮崎の高千穂の韋駄天鬼八を思い出させて面白い。これは多氏の伝説なので、駿河の多氏である大生部も当然からむことになるからますます面白く、そこに秦河勝が常世の神を怒って拳骨飛ばしてきたとなれば、もうできすぎたサイエンスフィクションである。あたかも落語の「頭山」のサクラである。『竹取』もよくできたブラック・SFだからちょうどよい。

かぐや姫という名前の姫はちゃんと記紀に存在する。確か天皇の妃か親族である。その「かぐや」という名前だが「籠や」か?「芳しい」か?「輝かしい」か?はよくは知らない。おそらく「かがやくような」なのだろう。迦具夜比売命と書く。大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)。大筒木=竹だからこれは京都の続き軍八幡市木津の王である。その娘だから竹取のモデルにうってつけ。息長氏の系譜。弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、翁は紀氏だろう。「大筒木のたりね」とはまったく竹の根っこを地上に増やしたという名前なので想像上の人だろう。

「かぐ」の語源を遡っていくと「かか」=赤い、輝く、さらに「Kakura]まで行ける。カクラはサンスクリットのカルラでガルーダのことである。神鳥で翼がある。転じて日本ではカクラは天狗のこと。



楽しい妄想で気分転換できた。ヒントに感謝。