弥生時代から秦氏はいた。
宇治に。



宇治の「池山古墳」、古墳の痕跡見つからず 墓地の可能性、名称変更を京都府に提案へ

古墳だと思っていたら中世の墓地だったという記事が考古学ニュースに出ている。この宇治の墓地のあるのは、往古、巨椋池があった低湿地帯である。

しかしここにはちゃんと前方後円墳もいくらかある。
例えば、さまざまの立派な遺物が出ている宇治二子塚古墳(うじふたごづか・五箇荘二子塚古墳ともいう、宇治市木幡の五箇庄にある)は、外堀のある大きな古墳である。今は大半は消失しているが、前方部はまだ残っている。


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全国に五箇庄、五家荘、五家ノ庄という地名がある。
この地名のいわれはだいたいが、五軒だけの農家が隠れたような僻遠の地に住んでいるという意味で、どこもみな、そこは隠れ里だが、貴種流離譚が残される。全国どこでもそうだから面白い。その実態は木地師小椋氏が伝承する。地名のいわれも小椋氏がいたからである。巨椋池に浮かぶ島々であったこの地域は、干拓されて、その後秀吉の時代に桃山城が建てられていた。桓武天皇陵もここ、中世の向島城もここにある。京阪電車桃山から三室戸までの範囲が巨椋池で覆われていた。稲荷山山塊の桃山丘陵だけが小高く存在した。桃山の御香宮には豊臣秀吉とともに神功皇后が祭られている。筆者にとっては学生時代のなつかしい思い出の地だ。

古代に、巨椋池は三川合流の大山崎から広大な湿原で、琵琶湖の二分の一ほどの巨大な沼地であった。しかも葦や竹が生い茂り、通行が難しい。当時の絵図では、岩清水八幡宮のある八幡市男山は湖に突き出した半島である。そもそもはここから山科は和邇氏小野氏の管理地である。

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今の向島南部に遺跡と古墳が集中する。宇治市街遺跡群である。





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朝鮮式住居跡がたくさん出ている。弥生時代の遺跡である。




平安時代の書物『聖徳太子伝暦』が書いた葛野・楓野・蜂岡伝説に、聖徳太子が夢に見た葛野へ、秦氏が迎えた宇治橋はこの地図の右下部分に今もある。橋の南部が木津川で、八幡市になる。八幡市から奈良へ直結する田辺への道があって、筒木宮跡(同志社大学田辺分校)へ続く。しかし木津川を渡る橋は、未だに時代劇によく出てくる木製の流れ橋だけである。

大和・飛鳥から北上して大住(大隅神社)を抜けて、筒城をぬけてここへ出て、流れ橋を渡れば宇治橋である。そこで河勝は太子一向を出迎えた。つまり宇治橋は秦氏の世界への架け橋だったのだ。古地図で観ると向島団地の填島あたりは全部島で、湿地の中に浮かんでいる。そのあたりが百人一首で有名な小倉である。小倉は小椋で、土師氏小倉氏の居住地だったが、一帯の朝鮮式住居遺跡はオンドルをもった、おそらく秦氏のものだろう。


宇治市街遺跡ともいう巨大な遺跡だが、鴨川を上がり中書島を少し登ればすぐに稲荷・深草である。深草には弥生遺跡が三つ四つあり、これもまた渡来系弥生人の遺跡だ。深草から東へ丘陵を上がって行くと山科へ出る。小野小町ゆかりの小野随身院へ出る。そこから北へゆけば天智天皇陵。東へ山科街道で琵琶湖の大津へ出る。和邇氏が多い土地である。


小野はもちろん和邇氏の居住地である。だから遺跡は和邇氏や秦氏の遺跡が混在している。

竜谷大学と警察学校の境い目の地下が深草弥生遺跡だが、埋め戻されてしまった。



巨椋池の六地蔵、木幡、黄檗、三室戸などは秦氏の古い居住地で、宇治二子塚古墳は秦氏の墓であろう。そこから継体大王の威信財も出ている。


「墳丘の規模についてはいくつかの点が破壊のため不明ですが、三段構築された後円部の径60mで、前方部の最大幅は85m、高さ16mを測り、墳丘全長は110mとなっています。
右側に造り出し部の付設が確認されています。
墳丘の周囲には二重で馬蹄形をした周濠があります。
これらの外周施設をふくめた兆域の全長が218mになることが知られています。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、動物埴輪、盾形埴輪、人物埴輪、ほか形象埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていました。
葺石が墳丘に施されていたとみられています。
古墳は二子山古墳公園内に保存されています。
現地を確認したわけではありませんが、道路地図や資料から判断する限りでは、黄檗駅からそれほど遠くはないので車を利用されない方でも訪れるのに苦労することはありません。
1991年に調査、発掘調査が1994年に行われています。
後円部中央にある埋葬施設は横穴式石室となっています。
横穴式石室は転石でつくられ全長17mと測られています。
出土したものとして倭製四乳四獣形鏡、金環、具などが知られています。
この京都府の山城地域は桓武天皇以前は山背ともよばれ同じ畿内に属する地域の中では辺境の地とされていたと推測されます。
この古墳の築造は古墳時代の後期にあたる6世紀初頭ごろと推定されています。 」


六世紀、つまり継体大王の時代の古墳である。
「菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)墓」  
と宮内庁の指定があるが、秦氏の墓でまちがいない。


木津川の椿井大塚山古墳からもそう遠くはない。こちらは大筒木王の墓とも言われてきたがおそらく息長氏よりも秦氏あるいは和邇氏ではないか?






息長氏は天武時代から奈良時代諸島までしか存在記録のない氏族で、天武~持統時代に真人だったが、そもそもそれ以前はまったく存在しなかった、記録にもないはずの架空の氏族である。その正体は『日本書記』が作り出した卑弥呼の虚像の王家を応神~継体の時代にあったと証明するために作り出された虚像でしかない。そんな氏族はいなかった。

その虚像偶像が必要だったのは、ひとえに『日本書記』が天皇系譜から蘇我氏血脈を消すために、無理やりに挿入された広姫からはじまった。そのような比売は存在しない。さらにそのためには、さらに遡った息長系譜まで捏造せねばならず、継体、神功皇后・応神・仁徳という嘘の氏族を登場させることとなった。実に壮大な大嘘である。

だから神功皇后は卑弥呼という中国が書いた邪馬台国の女王の姿に似せて描かれた。それが倭国の最初の正統な女帝だったから、その血脈を受け継ぐものが持統女帝であるとせねば藤原氏の朝廷内での確固たる立場も築けなかったからだ。




以上。


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今、継体大王の今城塚古墳の近くに、鎌足の阿武山古墳がある。
しかし阿武山は改葬前の古墳で、今は談山に鎌足の墓がある。
ところが、不思議な事に阿武山は、本来空の古墳であるはずが、ちゃんと遺体があって、鎌足が天智から死後与えられた大職冠の冠帽までが置き去りにされていた。遺体の髪の毛からは砒素が検出された。

この遺体が誰なのかはわからない。鎌足は乙巳の変のあと逼塞し山科に住んだ。天智天皇陵が山科にあるのは、鎌足のアドバイスで鎌足の所領の敷地を譲ったと考えられてきたが、本当はあとから藤原氏が、持統天皇の藤原京の真北という理由で、天子・天孫として作ったというのが正しい。つまり『日本書記』は天智=天祖の発想で描かれたにせの史書である。

天武も天智も、実は聖徳太子と同じく、不比等と秦氏が作り出した虚像の大王でしかない。つまり継体も応神も崇神も、すべては虚構である。

すべては持統のために、アマテラス信仰一本化の実現のために、最初の天皇となった持統の正統性を言うがために創作されたものでしかない。つまりまとめてしまえば、『日本書記』も『古事記』も、正史などではなく、ただの歴史小説なのだ。




すべての研究者は1300年間、だまされてきたのである。神武からこのかた天武まで、1000年間を、いやその前の神代のこともすべてが、だまし絵だったのだ。藤原不比等の。


壮大な大嘘。サギである。


日本の歴史の始まりはアマテラス=持統女帝から始まった。いいかえれば天皇家の歴史もまたそこから始まるのである。それより前はまったくなにひとつ不明だというのが、正しい、新しい歴史解釈である。


ぼくたちは時代劇を歴史劇だと思い込まされてきたのだ。不比等によって。



その嘘の影に秦氏がつねに存在した。
いまだにぼくらは秦氏と不比等にだまされ続けている。



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ひとりごと

いやいや、息長氏は百済武寧王斯麻の伯父・東城王末多の子孫だな。継体と斯麻の友人関係がこれでなぜかがはっきりする。和歌山の隅田八幡画像鏡は、継体が百済王族から出ることを示唆している。継体とは息長氏そのものであり、子孫が消えたのは彼が殺されたからだ。その正体は百済末多王だろう。「極めて性格がはげしく人を殺したりした人であると書かれた。それは朝鮮を捨てた人だったからだろう。ここに応神の影が見えている。