息長広姫の墓ではないだろう村居田古墳と息長氏本拠地湖東の長浜
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息長氏・気長氏(おきなが・うじ)とは?
「天武天皇の時、新たな氏族分類制度が導入された「八色の姓」。
この時最も高貴な姓である「真人」姓の筆頭に息長氏が位置付けられた。理由は、時の天皇家の祖26継体天皇は、息長氏であり、蘇我氏の血が入ってない「押坂忍人大兄皇子」の母親は、息長真手王(まておう)の娘で「息長氏」である。
 天智天皇も天武天皇もこの流れであり、天皇家にとって最も大切な氏族は、息長氏であると認定されたのだという説が強い。

他の「真人」姓はその息長氏の近い親族、及び継体天皇以降の天皇家から分かれた皇別氏族であった。と言われている。

ところが筆者の調査した範囲では、歴史上記録に残っている息長氏らしい人物は、継体天皇以降では、息長山田公なる人物唯一人である。
 系譜らしきものも残されていない。不思議である。

 一般的には息長氏は、和邇氏等と同じく天皇家をその皇族などに妃を供給する形で蔭で支えてきた氏族で、政治的には決して表に表れなかった氏族であったとされている。

 即ち天皇家の血筋を(天孫族として)常に綺麗?真っ当な状態に保つための氏族という役割に徹した特殊な存在であった。とも言われている。しかし、謎だらけの氏族である。

 記紀だけの記述では、一番天皇家にとって大切な氏族のはずなのに、その系図がすっきりしてない。その出自もよく分からない。

 何故であろうか。

 一方「和邇氏」の系図はしっかり残されており、平安時代の小野氏(小野道風、小野小町など)までかなりはっきりしている。

日本の古代史上謎とされている重要人物の多くが、息長氏と絡んでいる。
「彦坐王」「天日矛」「日本武尊」「神功皇后」「応神天皇」などである。

これらの人物の存在を正当化するために、記紀編集者らが、息長氏なる架空の人物群を導入したのである。とか、天武朝で「真人」姓に認定された息長氏関係者がその先祖を飾りたくて編集者らに圧力をかけ、記紀系図を改竄したのである、など諸説紛々である。」




「・息長氏は他の古代豪族とは異なった成立過程を経て氏族として確立された。
・初期においては「息長」という一種の特殊な技術(例えば製鉄技術)を有する集団みたいなもののリーダーみたいなものに与えられた名跡みたいなものだった。
・この名跡を婚姻、血族内の色々な関係を活用しながら、山城南部に息長の名跡を世襲する氏族が現れた。

・しかし、その山城息長氏族も跡が続かず、河内中部にその名跡が移った。この流れの血脈と神功皇后からの山城南部息長氏の血脈が応神天皇を介して合流され、これから幾つかの血族関係のある息長氏なるものが確立されその一つから26継体天皇が輩出された。

・息長氏は天皇家を支える氏族で表舞台に出ることは26継体天皇以降もなかった。
・全体的には謎の多い氏族である。記紀は敢えてその実態をあからさまにしなかったようである。

 彦坐王、神功皇后、応神天皇、天日矛、日本武尊など記紀記述で最も力を入れた人物の影に常に息長が見え隠れする。

 何かあると思うがすっきりしない。

・息長氏の実態を解明すれば、応神天皇・神功皇后などの実存性の解明に繋がる。」
以上「息長氏考」サイトよりhttp://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-9.html







皇別氏族であり、天皇家外戚でありながら、息長氏の天皇家以外の後裔はたったひとりしか歴史に名前がない。そんなことがありうるのだろうか?

現在、息長さんという苗字は全国にわずか10人しかいなという。

「滋賀県などに同様の地名がみられる。息長真人、息長宿禰、息長朝臣などの子孫ともいわれ兵庫県、和歌山県に少数みられる。「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。」









このサイトは読者会員の投稿情報でできあがっているから、もちろんこのサイトの情報が絶対に正しいとは思わないが、このようなことは、他の皇別氏族ではちょっと考えられないのである。すると上記記事が言っている「息長は海人族の名跡」というのは面白い。名跡であるなら、いったいどの海人族の長がそのとき息長太郎なんたらだったかは誰にも分からない。これは藤原氏には非常に都合がいい過去の前例になる。

いったい息長氏本家はどこから中央に登場を許され、どこへ消えてしまったのか?
全国に坂田さんは多い。その坂田とは滋賀県米原市の旧坂田郡からの地名名乗りであり、息長氏の系譜である。敏達天皇の妃となって皇極・天智・天武の息長系譜を生み出した広媛は系図ではこの息長氏坂田君の娘となっている。

滋賀県米原市・坂田郡・長浜市は筆者は一度だけ訪問し、伊吹山の寒風に辟易した場所である。ここに新幹線の米原駅(琵琶湖線米原~長浜までのアクセスが少なく、非常に離れた場所が本拠地坂田だった)ができた理由がまったくよくわからないほどの僻遠の地であり、ヤマトタケル伝承の伊吹山と伊福部氏伝承と尾張に出る不破関が天武天皇壬申の乱でクローズアップされた過去しかない寒村である。歴史資料館もかけはなれている。

ところがそんな僻地が息長氏の本拠地で、ここの伝広姫古墳も、宮内庁は息長広姫陵と指定してはいるが、広媛は飛鳥時代の敏達天皇(550年代)の皇后であり、出土埴輪から推定される古墳年代の五世紀末(450~470年?)とは100年の隔たりがある。そこで水谷は息長氏の中で意富富杼王(おおほどおう、継体祖父)を当てている。

「『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君(めたのきみ)などの祖としており、また「上宮記」逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫が男大迹王(袁本杼王)すなわち継体天皇とされる。近年の研究では、継体天皇即位の正当性を示すために系譜作成の段階で挿入された人物としてその実在性を疑われているが、「意富富杼(おほほど)=大ホド」は継体の「袁本杼=小ホド」と対応する名であることから、本来の系譜には継体の兄として位置付けられていた可能性もある。  意富(おう)は意宇、於宇、大、太、多と古書に登場し、出雲国東部を本貫とする大国主命を氏神とする一族との関連性も伺わせる。」



息長氏は本当に実在の豪族だっただろうか?

【酒人真人=坂田酒人真人の証明】
「大橋信弥氏は紀要第5号(1992年3月、滋賀県文化財保護協会)に、
「坂田酒人氏について」という論文を発表している。
大橋氏は平城京跡から出土した「二条大路木簡」の中から、「酒人」、「坂田酒人」、「坂田」を分析し、「坂田酒人」を略して「酒人」としていることを突き止めた。

また「正倉院文書」の「近江国酒田郡上坂郷長解写」には、「郷長坂田酒人公田狭」の署名に「酒人公田狭」の印判が押されているという。つまり「坂田酒人真人」と八色の姓で「真人」姓を賜った「酒人真人」は同一であることがほぼ明らかとなった。同時に酒人真人は木簡によると、近江国上坂郷を本貫とする氏族であることも明確となった。」
のんびりと古代史サイトよりhttp://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/folder/463363.html?p=11

どうやら坂田氏の別族である酒人真人氏の子孫はちゃんといたらしい。坂田氏と坂田酒人氏はそもそも同族である。しかし二つを生み出すはずの肝心の息長本家の子孫が、史上たった一人しか名前が出てこない。その息長山田公とは?

息長山田公
【舒明帝の喪葬の礼で述べられた息長家の日嗣】
「日本書紀皇極元年十二月条に、舒明帝の喪葬の礼が行われたことが記されている。
その中に、「息長山田公、日嗣を誅(しの)び奉る。」とある。
「息長足日廣額」、息長の名をもつ舒明帝の喪葬で息長山田公が日嗣を述べたということはどういうことだろうか。
古事記序文の「諸家の齎る帝紀及び本辞」が思い起こされる。

日嗣について日本書紀岩波版の注には、
「歴代天皇が位についた次第を言うか。」
と書かれている。
 
【息長氏の帝紀が古事記の原型にとりこまれた。】
舒明帝が息長家出身であることは父の押坂彦人大兄皇子が息長広姫所生であり、名前に息長を有していることからも明らかであろう。舒明帝の喪葬の場で息長氏代表の息長山田公が述べた日嗣は、息長氏の「帝紀」だったと考えられる。

黒沢幸三氏は「日本古代の伝承文学の研究」の中で、「山田公が誅したことの内容は、『帝紀』やさらには『旧辞』の編纂に反映し、摂取されてゆくのではなかろうか。このとき、息長氏がもち伝えてきた系譜や伝承はさらにまとめられて強化されて、『古事記』の原型の中にとりいれられたと考えられる。」

本家息長のかばねはこれ以降、まったく出てこなくなる。
では、息長本家はなんらかの理由で滅び、坂田系譜だけが残ったということのように見える。
その歴史上の事件について史書はまったく語らない。なぜだ?

実は広媛は母親がまったく記述がなくわかっていない人物である。天皇に嫁ぐ姫の母親がわからないなど、あり得ないことである。
参考Wiki広姫http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A7%AB



父親が息長真手王(おきながのまてのおおきみ、生没年不詳)
・・・は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻績郎女・広姫。麻績郎女は継体天皇の妃として荳角皇女を産み、広姫は敏達天皇の皇后として押坂彦人大兄皇子・逆登皇女・菟道磯津貝皇女を産んだ。WIKI息長真手王









キムタクならここで「ちょっとまてよ」であろう・・・。

とにかく『日本書記』はどうしても息長-継体の血筋は残っているんだとしたいようである。その息長と葛城の結婚から生まれたのが神功皇后なのである。彼女のだんなだった仲哀天皇は伊吹山に深く関わったヤマトタルの子である。また敏達の父欽明は継体と尾張目子媛の息子宣化天皇の娘石姫と結婚し、敏達が生まれて息長広姫と結婚。

継体の血筋が滅びずに飛鳥王朝につながるように造ってある。しかも欽明の母はさらに古い武烈の血・・・つまり雄略の血筋である。どうみても、過去のすべての王朝の正統性を継体が受け継ぎ、そのすべてを欽明が受け継いで敏達も生まれ、そこのまたまた息長の広姫が加わるわけで、つまり飛鳥欽明の正統であることを言い募ってあり、それはつまり天智-持統の血脈こそは正統の中の正統の皇族血脈だと言っていることになるだろう。

その一方で蘇我氏の血脈はことごとく消されていった。天武の子孫も消えてしまう。だから仕方なくなれるはずもなかった、天武に転覆された天智の直系である光仁がどんでんがえしで即位し、結果的にその子が桓武である。桓武が秦氏の作った山城の平安京に遷都。このときに藤原氏と結婚して生まれた秦(藤原)小黒麻呂が平安京造営長官・・・。藤原種継の母と藤原小黒麻呂の妻は、秦氏の出。北家と式家が両方とも秦氏の血で彩られている。



筆者作息長氏系図
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すべてができすぎている。
これだけは言えることだが『日本書記』天皇系譜は、
持統からは正しいのは間違いない。
しかし天武以前は、正直、絶対に真実だったとは言えない。
いや、たぶん嘘だ。



息長氏の系譜がつぎはぎだらけ

この系図を作りながらまず思ったのは、応神、継体、敏達のところで、系譜を作った人物はいちいちぶつ切りに息長女系を無理やり天皇の妃に入れているということだ。

どういうことかと言うと、まず一貫した息長系譜が既製品であったのではなく、いちいち天皇系譜を編集してゆく中で、息長氏の女性を思い出しながら、「ええと・・応神さんのこのときの嫁は誰だったことにしようかな?そこから息長なんたらが生まれるんだから、それと継体さんの妃とのつながりはどうつないでやろうか?敏達さんの嫁の名前はなんにしようか?」などと悩みながら試行錯誤したに違いないのだ。


神功皇后ー応神、その妃の景行ー仲媛の系譜がもう、空想上の産物だろう。いなかった人々だからいくらでも改変できる。応神から息長氏が六世孫として出るのだが、まずもってその妃が誰なのかわかりにくい。生まれたのが祖神・わかぬけふたまた王?
「若くして抜け出して二股をかけた王」??
なんじゃ?という名前に作ってある。最初からおふざけである。

敏達の妃、広媛こそが天智・天武にとって大事な祖母になるのに、その父親の息長宿禰の先祖がいきなりオオホド王に直結し、あいだがすっぽりわからない。

一番最初の神功皇后は、なぜか母方葛城氏が渡来人アメノヒボコの血筋で、父方日子坐王(ひこいますのおおきみ)は和邇氏の母と、いもしなかった開化天皇との子になっている。さらにその子は京都南部の綴喜郡の王で木津川沿線が急に登場。琵琶湖から宇治川でいけばまずは八幡市まで出て、三川合流の大山崎を左に見て往来も難しかった葦だらけのブッシュがある巨椋池から木津川へ出なければならない。そこは弥生時代から深草秦氏らの遺跡がある湿地帯で、息長氏は琵琶湖からここを通り抜けるためにまず深草秦氏と共同体になっておく必要がある。

「おおつつき」などという名前は、綴喜地名から作ったあとづけではないか?


筒木・綴喜は竹林が繁茂していたという地名である。巨椋池は竹で覆われていたのだ。そこを小舟でいくしかない。大きな船では通り抜けられない。しかも木津川南岸には武内宿禰の内臣祖先氏族が蟠踞していたはずだ。それに田辺には隼人がいる。竹を持ち込んだ氏族だ。




・・・とここで宅急便がきたのでまた次回へ続きます。

お?おお~~~!!
こいつは春から、ええもんをいただいたかも~~~~?!




あとで向こうへ書きます。




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