滋賀県高島市と福井県美浜町の秦氏について(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』2013 より)


近江国高島郡三尾(みお)郷の南市東(みなみいちひがし)遺跡・下五反田(しもごたんだ)遺跡に渡来人の痕跡が出土している。これは継体大王の母方出自となる三尾氏となる人々のものであると考えられる。この中に継体の父である彦主人王(ひこうしのおおきみ)の宮が含まれていた可能性があるという。このことに深く関連して近くにある鴨稲荷山古墳から次のような記載の在る木簡が出ている。



「■田廣濱 秦椋人酒公秦廣嶋 ■継」


欠字部分を補って読解すると、「はたのひろはま、はたのくらひと さけのきみ はたのひろしま ■つぐ」と読める。高島の鴨川近辺に秦氏がいた証拠品である。


また鴨稲荷山古墳と近接する鴨遺跡(奈良~平安時代)からは、

「遠敷郡 遠敷郷 小丹里 秦人足嶋 庸米六斗」
(おにゅうぐん、おにゅうごう、おにゅうのさと、はたひとたるしま ようまいろくと)


遠敷郡は滋賀県高島市とは鯖街道で隣り合う福井県小浜市のことである。遠敷は東大寺初代別当だった良弁(ろうべん)の母方出身地で、お水取りに先立ってここから「お水送り」された聖水が修二会に使われていた。この聖水が今は東大寺敷地内に井戸として引かれているとされている、その水がお水取りの水である。

小浜市にも秦人がいたということがわかる。しかも名前がどちらも「嶋」がつくので、両者は縁者であろう。

小浜と高島は安曇川沿いに今ではバスで一時間で往来できる。非常に近いと言える。丘陵がなだらかなので歩いて鯖を京都へ運んでいた。足嶋は米を京都へ運ぶときに、高島を経由していたわけである。ここから琵琶湖・宇治川で京都へ出られる。高島の安曇川地名、鴨川地名から、運搬に従事したのは安曇氏か鴨氏であろうと推測できる。

鴨稲荷山古墳の出土品は、継体大王からの下賜品と朝鮮からの下賜品で、豪華であり、石棺は畿内型の二上山白石を使った家型石棺である。近くに水尾神社があり、この「みお」は水に関わった福井三尾氏の古墳と考えられ、継体大王の関係者であろう。すると福井の秦氏と継体大王の近い関係があったことが見えてくる。


「若狭国(福井)貢進物付札木簡」に秦氏の名前が記録されている。

遠敷郡には秦勝(はたのすぐり)2名、秦曰佐(おさ=長)1名、秦人15名、秦人部1名が、三方郡には秦勝2名、秦曰佐1名が記録されている。


小浜市から東へ17キロばかり行ったところに「田烏 たがらす」集落がある。若狭国田烏浦である。この漁村を開いたのが秦氏の人であった。鎌倉時代には刀禰(とね、町役人)職としてここに住まい、以後、代々庄屋を勤めて今に至っている。この家の古文書は二百数十点に及び、現在京都大学文学部博物館に所蔵されている。それによれば彼らの先祖は鎌倉時代初頭、三方郡耳西郷日向浦(みかたのこほり、みみにしごう、ひるがうら)に秦成重・成里・則清(なるしげ・なるさと・のりきよ)三兄弟が移住してきて開発したと記録されている。耳西郷日向浦は現在の福井県三方郡美浜町日向である。



絶海の半島(常神半島)で、東には美浜・敦賀原発のある鶴賀半島の丹生に面す。ここには気比の松原(敦賀湾)があり、美浜・敦賀原発の存在によって進入できない道路が一本あるきり。対面する気比神宮の摂社となる常宮(じょうぐう)神社には神功皇后が祭られ、谷川健一によれば、かつては産屋(さんや)が浜に建つ海の民の居住地であった。




たがらすのうら【多烏浦】

「若狭湾岸中央部の半農半漁の集落。現福井県小浜市田烏。17世紀後期以後〈田烏〉と表記するが,古くは〈多烏〉であった。鎌倉初期,もと耳西郷日向浦(ひるがうら)(現,福井県三方郡美浜町日向)に住した秦成重兄弟が,時の若狭国守護稲葉時貞の後援を得て移住し,開発したと伝えるが,おそらくより古く平安期から浦人の居住が見られたと推測される。その後この浦は文覚上人のはからいで神護寺領西津荘の一部とされ,文覚配流により一時後鳥羽院領となったが,承久の乱後旧に復した。 」https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E7%83%8F%E6%B5%A6-849698

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気比は記紀に「御食国 みけつのくに」として記録され、塩や魚介の供出地で、気比大神と応神天皇が名前を交換した由緒在る土地で、気比はツヌガアラシトが開発したと伝承されている。王家に食料を出した地域ゆえに古くは敦賀一帯には都から膳氏(かしわでうじ)が国司として着任してきた。その記録である『高橋氏文』に「わかsのくにには、”むつかりのみこと”(六雁命)にながくうみのこらが遠き世の国家とせよと云々」とある。

六雁命とは膳氏の祖で、景行天皇に国を納めよと言われた人だという意味である。
若狭国造は膳氏に定めると『先代旧事紀』国造本紀にある。つまりここの秦氏たちは膳氏国造の管理下にあった漁民であったと考えられる。


継体大王の登場の影には、このように三尾氏や膳氏や息長系譜以外に、秦氏が深く関わったことは間違いない。

原発の立地と秦氏漁民居住地にも何か因縁があるのだろうか?


次回、ほかの原発立地に秦氏はいないかを探してみたい。例えば伊方などは?




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