記紀では、邪馬台国から飛鳥までをつなぐ時代には、河内王朝時代と継体大王時代があるわけだが、ぼくは磐井は記紀にある聖徳太子なのだと考えている。

彼が継体に負けることで弥生から続いた九州王朝の栄光は完全に消え去り、飛鳥・奈良が名実ともに覇者になってしまう。

磐井敗北の時代を記紀はおもんばかって河内王朝の次に置き、さらに彼を聖徳太子として飛鳥時代に遅らせて持ち上げて見せるが、その太子ゆかりの京都広隆寺に行くと、「和を以って尊しと為す」と大きく書かれている。漢文で「以和為尊」と書かれているのである。音読みすると「いわいのみこと」になる。

このブログを書き始めたころに広隆寺に久しぶりに行って、ぼくは愕然とした記憶がある。

太子は蘇我氏とイコールなので、磐井=蘇我氏なのかとそのとき考えたのだった。

互いに敗北する氏族だ。

九州人としては、九州王家からヤマト王家への移行は、極力記録よりも遅かったと考えたいものである。それが継体時代だったか、飛鳥時代だったかということなのだ。

邪馬台国敗北の責任を負って卑弥呼は「王殺し」されたか、または責任を以って自刃しただろうと考えているが、そうなると一時的にでもヤマトは狗奴国王に奪取されたことになってしまう。

ちょうどその時期から少し経って、豊後~兵庫の海人氏族である倭直・倭臣らが祭っていた大和神社が、今の場所に移され、倭直・臣氏族は「倭」の名前を渡来百済氏族に譲ってしまう。彼らの古墳と思われるのが有名な五色塚などの臨海大古墳群であり、そこから出た鏡に呉紀年入り鏡があるのだ。椎根津彦=うず彦を祖とする彼らが九州の海人族であると同時に狗奴国連合の氏族=たぶん紀氏ではないかと思える。
紀氏は葛城氏や蘇我氏同様、武内宿禰の子孫である。

倭氏は大倭と名前を変えたが、彼らの祭ってきた倭大国魂神も記紀で、宮中から外に出されるとある。それを記紀は崇神の3世紀後半としてあるが、実際には狗奴国が大和に入ったあとの4世紀だろう。

その後倭人伝はまた女王臺與をたてておさまったとあるから、呉が完敗してしまったあとではもう狗奴国のと金神獣鏡の威力も通じなくなったのだろう。こうして大和は西に狗奴国、東に旧邪馬台国勢力が対峙して、大同政治の古墳時代へと向かったのではないか?

ちょうどそのあたりの大和の事情を、記紀は、葛城氏と物部氏の三度の嫁入り、ひこひめ体制で天皇を担ぐと書かれる。


意味がおわかりになりますか?



武内宿禰氏族は狗邪韓國、奴国、出雲、南九州などを牛耳ったのだということです。

物部氏が負けて葛城氏に嫁を出すというのは邪馬台国が狗奴国に負けたんだと鳥越憲三郎は考えているわけです。一時的に倭では呉が勝ち、魏が負けた時間帯があったと。その後、大和は両方のひこひめ制で落ち着き、朝廷への道をあるきはじめる。