たくさんの復活待望があり、記事を再開させていただこうと考え始めた。ただいま復活可能性95パーセント。

さわりを書いておこう。大事な大事な邪馬台国研究する前にしっておきたい予備知識であり、大前提である。これを知らずに邪馬台国を安易に論じる人は多すぎる。





『三国志』魏書東夷伝中にある倭人の条は、日本で倭人研究、邪馬台国位置論などを論じるとき、最古の資料として必ず引用される。しかし、最古の紹興版あるいは最もよく使われる紹煕本、日本にしか残っていなかった咸平本(「呉書」のみ)『三国志』は百衲本(ひゃくのうぼん)であり、東夷伝のような番外編は特に散逸が激しかったらしく、実はその一級資料性そのものにやや致命的欠陥が生じた歴史的可能性があることはあまり言われることがない。これを知らずに倭人伝記事に限らず『三国志』そのものを正鵠無比の絶対的正史だと信じ込んで邪馬台国などを論じるのはやや危険である。


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「百衲本(宋本)『三国志』 - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古の底本である。ただし一部欠落があるため、紹煕年間の刻本で補い、張元済が民国25年に編した。」


百衲本とは、歴史上で散逸していた記録の断片をかき集めてのちに編纂し直したものである。このことから『史記』『三国志』などは、中国で正史とされつつも『漢書』『後漢書』『宋書』『隋書』などののちに編纂された史書よりも若干の疑義を持って学者たちは使用するケースが多い。まずは要するに中国24国史全体が「原本を持たぬものが多い」のだ。


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この前提を頭に置いて考えないと3世紀の倭人考察や邪馬台国道程及び方向論にそもそも意味がなかったことになりかねない。また地名の正鵠、人名の正鵠かなども当然論じられていなければ、まずその研究書はいい書物とは言えないという判断すら成り立ち、いきなり位置・道程論を書き出すような論は眉につばをつけて読むべきだろう。

中国人学者の多くが、日本人が『三国志』に傾倒しすぎる研究態度にはいささかな冷ややかな感想をもらす。中国通を自認する多くの一般歴史愛好家の傾向でも、やはり『三国志』ありきから始まるものが多すぎる。そうした戦後の日本人の東洋史・中国史への付け焼刃の愛好癖が、実は専門家にも影響してきた様子がある。魏志倭人伝記載の「卑弥呼 ひみこ?」「卑弥弓呼 ひみきゅうこ?」「壹与 いちよ?」などの人名、あるいは「邪馬壹國 やまいちこく?」「一大國」などの地名そのもの、あるいは「一大率」などの役所名など、それぞれ宋代編纂過程で文字が置き換わった可能性がある。というのは、三国志と同時代の『漢書』地理誌や『後漢書』『太平御覧』などが、あるは完本でまだ存在した本来の『三国志』倭人記事を引いて書いている地名・人名・役所・役職名などのほうが正しい可能性が高いからである。

これらの書物が表記したものを取ると、魏志の言う「邪馬壹(いち)國」は「邪馬臺(だい)國」となっているのである。以前書いたことだが「臺」は台であり、中国や朝鮮ではこれは王がいるところと言う意味がある。だから邪馬台国という地名は「やまー臺」であって地名はあくまで「やま」であるとも論じた。


「『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。

日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である」
Wiki邪馬台国https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD#.E3.80.8C.E9.AD.8F.E5.BF.97.E5.80.AD.E4.BA.BA.E4.BC.9D.E3.80.8D.E4.B8.AD.E3.81.AE.E2.80.9C.E9.82.AA.E9.A6.AC.E5.8F.B0.E5.9B.BD.E2.80.9D

このようにたとえ後世の記録といえども、底本として百衲本『三国志』以前のものを使った史書の記録が正しいと思うのは必然なのではないか?そういう意味で九州に愛好家、多大な先入観を持つ傾倒者の多い古田武彦の論調を、筆者は常々慎重な見方で読んできた。九州出身だが長く関西で過ごした筆者は、だからこのブログでもその論調を用いることもなかった。また畿内説にすら平等に、その戦後から引き継がれた大和至上主義的論調へ警告を鳴らしてきたのである。なんらの恣意的論調にも同意しない意思が必要だ、それが筆者の持論である。最初から邪馬台国論そのものを日本史上の「きわもの」だとむしろ否定し、近づこうとはしないできたのである。だからこのブログが邪馬台国について今回のように本格的に論じるもくろみはこれが最初である。


さて、すると「壹與 いよ?」という人名は「臺與 だいよ、とよ?」であり、意味として「臺を与えられたもの」という意味を持ちえることとなり、記事の流れにふさわしくなる。

魏志では壱岐のことを「一大」と誤記?して使ってある。対馬と対で書かれるこの島国が、いまの壱岐であることに疑問を呈する研究者はほとんどいない。しかし「一大」では「いき」とは読めず、これは「一支」の間違いではないかと広く考えられている。するとあとに出てくる「一大率」ももしや「一支率」の誤りで読みは「いきそつ」であり、それが壱岐に置かれていた前哨地帯だったのではないか?という疑問も出てくるべきだろう。「率」役所の出張所かと思えるので、一大は地名である可能性は捨てがたい。

これに矛盾しない遺跡が壱岐の原ノ辻(はるのつじ)遺跡として存在する。對海國=対馬國が海洋民による漁労の国で貧しくて「南北市糴」す、だったに対して、一大國=壱岐國はいささかの田畑を持ちつつ海洋民族であったと表現される。

ところが原ノ辻では大陸の食習慣である肉をそがれた跡のある犬のおびただしい遺体が50頭分以上も出て、しかもそれらの骨の多くが肉食されたことを如実に示す多くの叩かれて割れたあとがある。これは愛媛県・高知県県境で出た人骨のナイフによる傷あと同様(過去記事「縄文のオーパーツ?」)、骨を割って骨髄を吸いだした痕跡(食肉マーカー)で、ここには多くの大陸からの渡来人が過去(考古学的には縄文初期からすでにその痕跡は出ている)訪問、移住していた可能性を示すのである。


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画像 上記邪馬台国研究サイトさんより


つまり壱岐には縄文時代から倭人海洋民族と渡来大陸系肉食=狩猟?民族が同居していたと筆者は見るのである。そういう場所に一大率が置かれたのだろうと。

いずれにせよこのように、書写する際に、誤字が使われた可能性が『三国志』そのものにはあるのである。また文字の転倒もありえる。例えば狗奴国王の「卑弥弓呼」という男王名は、もしや「卑弓弥呼」であって、「ひこみこ」だったのではないかと中田興吉などは論じている。

すると邪馬台国畿内説が言い始めた方位の誤写説による南を東に変更してしまう論調も、出てきて当然であったことがわかるのだが、方位に関しては、それはやはり畿内における京都大学史学主導の、戦後まで残存した皇国史観によると思える日本史畿内・大和朝廷至上主義的な論調が生み出した、あきらかに対九州弥生先進文化を意識した恣意的偏重思想が生み出したものと見えるのは否めない。古墳時代をどうしても卑弥呼直前の2世紀後半~3世紀前半に押し上げたいのもそこに起因するのは明らかで、あまりにあざとい意図的自意識の露出に見えてしまう。それはかえって彼らには損をまねくことになった。九州と機内のなくてもよい対立を扇動したのである。

いかに魏志が百衲本というやや杜撰さを伴う記録であるにしても、筆者はこれは受け入れがたい。もし誤字があったにせよ、南が東に変化してしまうには、漢字そのもにまったく書写者が取り違える必然性がないからである。(東西や南北の転倒ならありえる。長文を書き続け疲労困憊した脳髄、老化した脳髄、未発達な脳髄では、筆者もけっこうよくやるので、こうした錯誤転倒はよく起きる。しかしそれは一時的ボケの範囲で起こるのであって、角度が90度の間違いは人間にはなかなか起こらない。あるとすればそれは病的な錯乱だと言える。)

これがまずは邪馬台国研究をするに当たっての大前提のひとつである。
愛好家諸氏におかれては、まずこの事実から明確に頭に入れておかれることを強く望む。




大前提はほかにある。それは次回をお楽しみに。

記事更新はゆっくりとやっていくので、あせらず次回をお待ち願いたい。邪馬台国論は慎重にも慎重をかさねて論じる必要がある日本史最大の謎。しかもそれはわれわれ日本人論にもなる重大なものだ。あなたも筆者も、これまで、多くのいきなり大和、いきなり伊都国論にふりまわされてきた。どちらも大前提を忘れた論考の山を見せられ、先入観を持たされすぎている。まずはこれまでの先入観をすべて捨て去って、ゼロからはじめようではないか。





納得できたら、次回が読みたいと感じたら是非「ナイスぽち」していただきたく。

今回の復活記事をものするに当たって筆者は四冊の貴重な論考を読み、参考にしている。その書名はこの論の最後にいずれ記載する。考古学から二冊、東洋史から一冊、素人の推理推論から一冊である。あくまで参考でしかないが、今後図版を借りて徐々に紹介できるだろうと思う。

次回からKawakatuとくいの図説も多くなるのでお楽しみにしてください。







これ以降の記事は本日(2016・11・30)すべてファン公開に切り替えました。
割り込みヒント記事は友だちのみの公開にしました。
なぜ?
逆に聞きたい。なぜ誰かに謎のヒントをタダで教える必要が筆者にあるのでしょうか?ぼくは学者ではない。筆者にそのような無料公開の義務など皆無です。読みたければどうすればいいかぐらい自分で考えて。このブログはぼくのための私的な日記でしかなく、あなたのための小説ではないのですから。むしろわずかの間でも公開していたことを感謝して欲しいものです。

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