平安~江戸時代、流罪の場所としていくつかの地域が存在し、その平安京や江戸からの船旅と徒歩の日数がほぼ類推されている。




「流人は日に35里をゆく。
 神亀元年3月格には、「行程」をつもるときには、この「諸流配遠近之程」を基にしなければならない、という意義がある。では、この計算は実際どのようになっているのだろうか? 掲示された諸国の里程は「歩日50里」で割ると余りが出るものばかりである。
  しかし、
  「安房、去京1190里」を「35里」で割ると商は「34日」になる。(1190÷35=34)
  「常陸」以下も同様に「35里」で割る計算をしてみたところ、
  佐渡國を除いて、同様に余り無く割り切れるという結果が出た。(表1、第3項)。
  この結果はつぎのように解釈することができる。
 京より或る流国への里程だけが示されていても、その行程が幾日になるかということは、その里数を35里で割るとただちに判明する。

<表1>
  主計寮式(輸調行程) 主税寮式(運漕雑物功賃) 刑部省式(流配遠近之程)
    上日程(海路) 功稲3束逆算日程     35里逆算日程
 安房  34日     100束(33日)  1190里(34日) 遠流
 常陸  30日     100束(33日)  1575里(45日) 遠流
 佐渡  34日(49) 108束(36日)  1325里(37余) 遠流
 隠岐  35日     180束(60日)   910里(26日) 遠流
 土佐  35日(25) 105束(35日)  1225里(35日) 遠流
 信濃  21日      66束(22日)   560里(16日) 中流
 伊豫  16日(14)  30束(10日)   560里(16日) 中流
 越前   7日( 6)  24束( 8日)   315里( 9日) 近流
 安藝  14日(18)  42束(14日)   490里(14日) 近流
 しかし、「35里」で割るというのも変なので、
  あくまで「歩人50里」で割るとすると、さきに里程のほうを、35:50の率で増やしておく必要がある。

安房(1190里) 1700里÷50里 = 34日
 常陸(1575里) 2250里÷50里 = 45日
 佐渡(1295里) 1850里÷50里 = 37日
 隠岐( 910里) 1300里÷50里 = 26日
 土佐(1225里) 1750里÷50里 = 35日
 諏方( 560里)  800里÷50里 = 16日
 伊豫( 560里)  800里÷50里 = 16日
 越前( 315里)  450里÷50里 =  9日
 安藝( 490里)  700里÷50里 = 14日
http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/kuwaharagun/rukei_1.htm


奈良時代の遣唐船
櫂と帆を併せ持つ


この中で、現代の地理感覚では近畿から最も近いような気がする土佐を取り上げよう。京から土佐まではちょうど魏志の言う竹志あたりから邪馬台国までの距離や道程に似ていると仮定が可能だろう。船旅の場合、邪馬台国を吉野ヶ里と仮定すると、距離も道程も非常に土佐流刑道程に似てくるので比較するのにちょうどいい。

先日NHKBSで流人配流事情の話をやっていたが、讃岐にあった郡から土佐流人置き場までの日程が25日もかかっていたと話していた。

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土佐がなぜ流人の置き場になったかといえば、周囲をぐるりと山に囲まれて逃げ出せない、対面する海は太平洋で、浜は遠浅で容易に近づけないからである。





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『土佐日記』より 貫之の土佐左遷



紀貫之『土佐日記』からでも、讃岐から土佐までの全行程に20日以上。もちろんそれは天候がかなり影響したが、これが平安京からで数えると一月以上かかってしまう。
コースは江戸の流人とは違い、以下のような熊野灘コースであるが、それでも近畿から四国はすぐそこにあり、伊予までならわずか16日の船行で行き着くのに、土佐までだとこの場合、鳴門の渦潮や高波、速い波に翻弄され、港へ直行しているのに一月以上かかっている。






□ 土佐日記の原文・現代語訳(口語訳・解釈:全訳)
 
承平4年(934)
 
12月21日 『男もすなる日記といふものを…』 : 冒頭。門出。土佐の国府を出発。
 
12月25日 『二十五日。守の館より…』 : 新任の国守から供応を受ける。
 
12月27日 『二十七日。大津より…』 : 土佐の大津から浦戸、そして大湊へ。
 
承平5年(935)
1月1日 『元日。なほ同じ泊なり…』 : 大湊で迎える正月。
 
1月7日 『七日になりぬ…』 : 悪天候による大湊での足止め。
 
1月7日(続) 『かくて、このあひだに…』 : 歌の下手な来客と上手な子供。
 
1月8日 『八日。障ることありて…』 : 大湊から奈半へ出港。
 
1月9日(続) 『かくて、宇多の松原を…』 : 名勝、宇多の松原と夜間の航行の恐怖。
 
1月10日 『十日。今日はこの奈半の泊に…』 : 奈半から室津へ。
 
1月13日(続) 『さて、十日あまりなれば…』 : 天候不順で室津に停泊。
 
1月17日 『十七日。くもれる雲なくなりて…』 : 出港するも、天候不良により、再度、室津に寄港。
 
1月20日 『二十日。昨日のやうなれば…』 : 月を見て、阿倍仲麻呂を想う。
 
1月21日 『二十一日。卯の時ばかりに…』 : 室津を出港。
 
1月22日 『二十二日。夜んべの泊より…』 : 海賊対策としての神頼み。
 
1月27日 『二十七日。風吹き…』 : 鳴門の土佐泊へ。
 
1月30日 『三十日。雨風吹かず…』 : 四国を去り、和泉の灘へ。
以下略



古代~明治初期まで、
それが貴種の行列である場合
1 山越えは絶対しない・・・山は聖域で神がいるから入らない。山越えしない。山にはクマやオオカミがいて大変危険。

2 遠浅の港には大きな運送船は寄り付けないから、かなり遠隔の港から歩いた。

3 河川の航行は下りのみで往復はできない。

4 夜間は動かない。

5 天候や風向き・潮目によってかなりのロスが出る。

6 海賊・山賊もいる

などなどの諸条件がある。例えば天皇行幸とか外国の使者団の移動は、まず整然と隊列を組み、ゆっくりと進む。まして彼らは普段ほとんど宮城、都市から動かない人種で、山を越えたり、激しい河川を下る、あるいは暴風大風で動くはずがない。だから日程はかなりのゆとりも換算して推定するものである。

つまりわかることは、見た目の距離と日程は関係ないということである。

港や海の地形や古代の道の非整備状況、山越え不可能などなどによって、そこに見える場所に行くのに、相当なロス、遠回りなどはどうしても必要だったのである。


すると弥生時代などはいかばかりか?と推して知らねばなるまい。
魏志倭人伝では?

充分な船はあったと仮定しよう。
使者一行がしゃなりしゃなりと移動できるような道はなかったであろう。
草木繁茂して前が見えない・・・そういう獣道しかないような時代である。
目的地を例えば吉野ヶ里にしてみよう。

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記事に正確にしたがって、方向は絶対南。それも概して南である。直線で南ではない。出発地から概算すると真南の方向にあるということだ。だから南するのに、あるときは別方向を進むこともいたしかたない。

伊都国あたりから南へ向かうには
1那珂川を下り朝倉・日田あたりまで河川を水行。そこから筑後川へ出て下る。
2船で唐津を経てぐるっと周り有明海へ。しかし有明海は遠浅なので、瀬高か玉名あたりから徒歩になる。
3筑後川河口からまた舟に乗って遡る・・・筑後川は淀川のように遡上可能な大きな平常は静かな河川。歩けば一月はかかる。草木を藪漕ぎしながら道を作りつつ進むことになる。

では宮崎だったら?

不弥国から周防灘を下り、国東半島を回って佐賀関、佐伯、そして美美津海岸。いや美美津は遠浅で大きな船は乗り上げてしまうので、佐伯か蒲江から徒歩になる。持田まで約一月以上はかかるだろう。


さて、では近畿、大和へはどれぐらいかかっただろう?
日本海と瀬戸内海で考えてみる。
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とてもではないが、讃岐から土佐まで平安時代でさえ25日かかっている瀬戸内海では、島々にはさまれた狭い瀬戸のたびに航行が難しく、とんでもない日数がかかってしまうのである。おまけに瀬戸内にはすでに海人族の海賊が横行していたかもしれない。おそらく図に書いた日程より倍くらいかかるのではないか?
瀬戸内海は渡航が難しすぎる。つまり速吸戸のようなボトルネック水流の難所が何百箇所もあるからだ。古代の往来は瀬戸内よりも日本海が中心である。

一方日本海は潮が早く、瀬戸内海の数倍は早く丹後、越前まで到達できる。しかしそこから京都までが遠い。由良川を遡るのは無理。福井から山を越えて琵琶湖へ入るしかない。出雲から吉備ならかなり楽であろう。いずれにせよ2ヶ月~3ヶ月はかかっただろう。


つまり魏志の水行10日陸行一月ぐらいではとてもじゃないが九州から大和へはたどり着けなかったはずである。