あくまでも私的な考え。
けれど、一応10年ほど温めてきた論。
記紀氏族の日本登場と『三国志』記述をつないでみよう。
日本古代史にはいくつかの解けない謎があるが。
1邪馬台国はどこだ?
2蘇我氏はどこから来たのか?
3河内王朝から飛鳥時代の間にある断裂感はなぜ?
・・・
・・・
それぞれいろいろ謎はあると思う。
『三国志』は中国の3世紀、三国鼎立時代の紛争を描く。
その時代、「倭人伝」では、日本では卑弥呼なる女王がいたと書かれる。
その後、中国が争乱時代になり空白の4世紀があって、日本では倭の五王が登場し、それが継体を経て飛鳥時代へと向かう。
考古学で、魏の曹操の祖先たちの墓からは「倭人はやって来るか」と書かれた文字(倭人字磚)が発見されている。
中国三国志時代は曹操の勝利で終わり魏が建つ。
曹操にとっての「諸葛孔明」=軍事顧問は司馬仲達(しば・ちゅうたつ.司馬 懿)である。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名な人物だが、この「司馬」とは厩の管理者=軍事専門の役職名である。(『史記』による。ついでに馬を司るとは西遊記の孫悟空もそうだった。また聖徳太子が厩で生まれたという逸話もあって、キリスト誕生とか大工=寺社創建の祖という民間伝承があるのも大いに関係する)
曹操の死後、魏はその忠臣司馬氏の子孫(司馬炎)の裏切りにより転覆し西晋が建つが、これもまたすぐに崩壊。理由は季節変動による異民族進入という、中国歴代の宿命もあるが、炎の政治無関心が最大の理由で八王の乱が起こり西晋は318年頃、完膚なきまでに滅びる。この西晋時代に日本から朝貢してきたのが卑弥呼の宗女で女王となった臺與である。このあと混乱時代が続き東晋が建つ。
これが中国に倭国についての記録がないので東洋史上では日本の「空白の4世紀」という。
では司馬氏は完全に滅びたのか?
ここで河内(かだい)という地名が出てくる。
司馬氏はどっちにしても史上数度の滅亡の危機があって、それはつまり大陸史では亡命の可能性があった氏族なのである。
さて、日本ではその頃、古墳時代が始まっていて、畿内地域には伽耶王だったであろう葛城氏をはさんで河内に王朝が起こっており、西にはそれより古い時代の大和の大古墳群が存在する。葛城という山地の麓では、渡来してきた異民族がまずは置かれてきた伝統がある。秦氏も賀茂氏もまずはここに置かれている。記紀神武伝説でもここが最初の入植地だっとなっている。つまり葛城の西麓・御所市あたりはそういう場所である。大和と河内・泉州古市の境目で、大和川と竹の内街道などの交通の要所。
この大和川の支流が大阪府側を流れる石川である。
石川は蘇我氏の本拠地である。
その蘇我氏の入鹿は「鞍作」というあだ名があった。
鞍作氏はもと司馬氏である。
どこから来たかもよくわからない司馬達等(しば・たっと)を祖とし、子孫に飛鳥の仏師として「教科書で」著名な鞍作止利(くらつくりの・とり)がある。父は達等の孫である鞍部多須奈(たずな)で、たづなは手綱でやはり馬関係である。つまり司馬氏は日本にあっても馬に関した仕事をしているのだから、中国の司馬氏の子孫であろう。それが亡命して半島経由かどうかは知らないが、倭の五王とともに?葛城に入ったのである。
一般に入鹿が鞍作大臣と呼ばれた理由を、コモンセンスでは司馬氏に養育されたからだとしている。蘇我氏とは石川沿岸の地名(曽我・宗我)を名乗っただけで、本姓は不明な氏族だが、馬子は葛城が本貫ゆえに欲しいと天皇に申し出ている。そして自分たちは葛城氏出身だと言っている。
蘇我氏は決め付けてしまうなら葛城氏ではなく司馬氏であったとしてもかまわない。中国から八王の乱、あるいは東晋滅亡、あるいは黄巾の乱で逃亡してきた馬を扱う氏族。
すると鞍作というあだ名の意味がにわかに通じてくる。
馬の鞍を作った氏族なら、それは司馬氏の下部にいた工人氏族になろう。
ならば飛鳥寺に釈迦三尊を作っておいたとされる止利が、仏師になったのは解せない転進だと気がつくのだ。
あの三尊像はあきらかにおかれた時代が違う。もっとあとの天智時代か光明皇后時代のもので、光背銘文はあとで書かれたものとも考えられている。
ここでまた妄想だが、トリはいなかった。あるいは仏師などではない。それは蘇我馬子オア入鹿のことだとしてみよう。いかがか?
聖徳太子=厩戸=馬子=鞍作止利・・・蘇我氏を滅ぼしたゆえに蘇我氏を本貫氏族の司馬氏=鞍部に『日本書紀』がすり替えた詐称ではないか?
呑みたいから中断して後半へつづく。
コメント
コメント一覧 (2)
今日、古墳に関する本を読んでいて、「地方の古墳はヤマト王権の指導よるもの、工人集団の派遣によるもの」という説に胸が閊えた思いでしたが、kawakatsuさんの仮説、腑に落ちる思いで読みました。
kawakatu
がしました
「地方の古墳はヤマト王権の指導よるもの」ではなく、ぼくはもともと九州王族が好んでいた様式を、大和へ3世紀前に移住した九州王族を祖とする大和王権が、主に熊襲けん制のために送り込んだ警護部隊(日下部や靫負部)の墓=権威的モニュメントとして可視的脅威として置かねばならないほど熊襲が強かった・・・と見るようにしています。
その証拠に九州では家臣団である一族の横穴墓にさえ、靫や剣の装飾が描かれています。彼らが派遣された大和氏族であることはまずは認めますが、前方後円墳そのものは古くから九州にはあって最初から横穴式。纒向がそれより古いという仮説は大和学者側の言い分であり、ならばなぜ途中から竪穴式を九州的横穴式に代え、また個人埋葬だったものを九州型の家族埋葬型に変えたのかの説明ができていません(多くは百済の影響とはしてますが、むしろ伽耶の影響でしょう。つまり伽耶は倭人の国ですから、もともとはつぼ型古墳は倭人海人族のものと)。
少しは慰めになりましょうか?
kawakatu
がしました
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