奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前
2016年10月05日 06時00分
読売・毎日・Yahoo!などが軒並み報道。
平城宮跡で出土した木簡。ペルシャ人とみられる名前が書かれていた
「奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯はし」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。
木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。
表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属いんがいだいさかん」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯はし」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。」
このブログ読者ならご存知のように、筆者はずいぶん前から奈良飛鳥のペルシア人技術者・建築士が飛鳥時代に来ていたことを何度か推理推測してきた。
その証拠ともいうべき木簡が、時代は奈良時代の平城京ではあるが、波斯という苗字の官僚がいたことから、いよいよ確実になってきたように思う。
Wikiはこのように、まだ昨日のニュースから記事をものしている。
この発見木簡は以下のように解読されていた(研究機関が利用する記号[1]付きのまま引用。□は解読不可、ヵが推定文字、○が省略字もしくは空欄、/が割が書き始め、〔〕注。)。
大学寮解○申宿直官人事/員外大属□□清道/天平神護元年□□□□〔月廿四ヵ〕日∥・○□□□〔大学寮〕宿□〔直ヵ〕○/□□无位□廣□/○□〔直ヵ〕丁〈〉人∥
— 独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所、 木簡画像データベース「木簡字典」[2]
— 独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所、 木簡画像データベース「木簡字典」[2]
これは記号を解すると「大学寮解 申宿直官人事 員外大属 ??清道 天平神護元年月廿四日 大学寮 宿直 ??无位?廣? 直 ?人」と読め、この時点では苗字不明であった。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E6%96%AF%E6%B8%85%E9%80%9A
読者諸兄はご存知と思うが、これまでこのブログで、飛鳥にペルシア人が来ていたと筆者は何度も書いてきた。
飛鳥のペルシア人シリーズ1~8全ページリンク
2011年9月3日から五日間に渡って連載したもの
飛鳥を造ったペルシア人 新シリーズ まだまだやめられないhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094135.html
飛鳥のペルシア人 2 亀・飛鳥寺伽藍・エンタシスと飛騨匠http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094686.html
飛鳥のペルシア人 3 ひらいけん・日本海蝦夷・巨木建築・出雲大社・そして飛騨http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094988.html
飛鳥のペルシア人4 トカラ国から来た男女と盂蘭盆会http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54097207.html
飛鳥のペルシア人5 まだら(斑)
飛鳥のペルシア人6 司馬達等と鞍作氏と蘇我入鹿考http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54104131.html
飛鳥のペルシア人7 王族か商人か?舎衛は王女かただのメイドか?http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54104152.html
舎衛 追補 ペルシア王女も王も来てはいないhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54104553.html
飛鳥のペルシア人8 狂心渠と聖徳太子血脈の抹殺とシュメールhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54106470.html
また『日本書紀』神武天皇の伝承がアレキサンダーにあまりに似ているために、それをペルシア人が持ってきたという仮説も書いた。
考古学では四国でペルシアのガラス玉も見つかっていた。
飛鳥にはペルシア起源のポロも伝わっていた。
蘇我氏とペルシアの関係も書いた
雅楽仮面のペルシア人も
ほかにも花崗岩のアブ名もエジプト語でペルシア人が伝えた、麻と忌部とペルシアについても
エンタシスとペルシア人も
波斯(はし)とはペルシアの中国語表記なのでこれはペルシア人だろうと、ついに専門家が認めた。しかし・・・筆者はペルシア人が奈良時代までに来ていたとするには、これがまだ充分な証拠品だとは思っていない。人名、名乗りにはいろいろな事情がある。これだけをもって波斯清通(はし・きよみちと読むか?所論は「せいつう」と音読み)がペルシア人の子孫あるいはペルシア人だったとしてもいいかどうか、実は納得しない。そんな安易なことで学究するものが豹変したかのごとく認めるのか?と面映いのである。
というのは、先達のペルシア学者などがいくら書物にしても、彼ら研究者はこれまで一切無視してきたからだ。それを木簡だからといっていきなり180度転換して認めるとは?である。
もしそうならば、橋さん一族など、まさに心穏やかではなくなりはすまいか?
もちろんうれしい発見なのだが、筆者には、その学究態度は解せない。
波斯苗字についてもう少し慎重に歴史と今をつきつめてから決めても遅くはないのではないかとも感じる。
はしならぬ、はて?なのだ。
そんなに転向して大丈夫か?
学問とはそのように軽いものなのかである。
逆に心配になる。
コメント
コメント一覧 (9)
筆者の先見などどうでもよいことだ。
ただそういう書物をたまたま発見し、面白いから書いてみただけだった。考古学も歴史学もこれを最初の書物が書かれた明治時代から無視してきた。
kawakatu
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kawakatu
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【法隆寺が消失する前】、中近東辺りの人々と我が国の人々は、
最も自由な交流、婚姻、交易等が行われていた_と推察いたします。
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kawakatu
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法隆寺創建601年、法隆寺が全焼670年。
【法隆寺中門は国宝】ですが、
【法隆寺・金剛力士像(711年)阿形.吽形は重要文化財】。
ところが、何と、
1203年7月24日から10月3日までの70日間で
像造された
とされる【東大寺南大門の仁王像.金剛力士像:吽形像阿形像は国宝】。
しかし、雨ざらしの、
【法隆寺・金剛力士像(711年)阿形.吽形】こそが
【最古の彫刻】として
【最大の美に達した日本の財産】と受け止められます。
東大寺のそれは比較対象となりません。
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kawakatu
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kawakatu
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【法隆寺中門の阿吽形像】は
【実物のモデルの存在】が明かな【正確な具象立体】です。
(空想ではない、フィギュアではない。)
この
【法隆寺・金剛力士像阿形.吽形の完成度の高さ】から
【飛鳥時代の国際交流・技術交流】における多民族興隆が窺われます。
よって
中門金剛力士像のsculptorは、
【古代ギリシア彫刻が見本としたエジプト】の彫刻の影響及び渡来人作
【ペルシア方面】からの渡来人作と推察されてまいりました。
“類型見本の東大寺の阿吽形像とは明らかに完成度が異なります”
南大門のそれは単に劇場型!【劇画の域を越えません。】
非常に不自然であり、信仰の為の信仰フィギュア、
嘗てのほんもの中門の金剛力士を模擬した類型、
にしか至りませんゆえ。
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kawakatu
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<ここには【ものをつくる】ことの必然性が証されております。
<【本当に護るべき者と建物と物品】を
<【護衛した人物たち】といぅ意味で
<“南大門の真似事”のよぅに【奥の間のお飾り】には【しなかった】
のだと推察いたします。
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kawakatu
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飛鳥寺はのちに元興寺になり、今は別の場所にありますが、もともとは法隆寺の場所にあったと記憶してます。それでいい?
すると飛鳥時代にはもうペルシアかエジプトかの工人がきており、たぶんギリシア様式など持ち込んでいると。
いやギリシアがペルシアをまねしたんだろうけど。
kawakatu
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kawakatu
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