人類は暴力とともに進化、ただし現代は例外的


「科学者たちは、トガリネズミから霊長類まで、1000種以上の哺乳類の約400万件の死の記録から、このような恐ろしい行動の証拠を探し、人間の殺人の歴史もまとめてみた。

 すると、1つのパターンがはっきりと浮かび上がった。相手を死に至らしめる暴力は、哺乳類が進化するにつれて増加していた。同種間での争いで死んだ哺乳類は全体の0.3%しかいなかったにもかかわらず、霊長類ではこの数字が6倍の約2%となる。同様に初期人類も約2%で、これは旧石器時代の人骨に残されている暴力の痕跡の割合とも一致する。

 中世は殺人の時代だ。記録されている死のうち12%が人間同士の争いによるものだった。それに比べると前世紀はかなり平和で、互いに殺し合った率は世界全体で1.33%だった。現在、世界でもっとも暴力が少ない場所では、殺人率はわずか0.01%と非常に低い数値を人々は享受している。」



チンパンジーやヒヒは非常に凶暴な一面のあることはよく知られている。しかし人類はそれ以上に強暴だという結果が出てしまった。霊長類ではゴリラは外見に似合わずとても温厚な動物で、激しい威嚇はするがほとんど手を出すことがない。同じ霊長類でなぜこんな違いが出るのだろう?

中でも人類は、仲間同士で戦い、高い確率で相手を傷つけたり殺したりする。自分では万物の霊長などと言っていながら、この凶暴性はなんだろう?

動物の争いは、そのほとんどを縄張りを侵したものに向かい、仲間同士では繁殖期のメスの取り合い、えさの取り合いなどでしか相手を傷つけないし、ある程度ダメージを与えると、相手が引くか、腹を見せたりして従属を表す。必要以上に相手を傷つけない。よほど怒ったときでないと仲間以外の動物でも甘噛み程度でおさまる。

ロシアの作家ガルシンは「この世の中に人間ほど凶暴な動物はいない。狼は共食いをしないが、人間は人間を生きながらにして丸呑みにする。」と書いた。あらゆる動物の中で最も危険な動物はなにか?という質問をすると、誰もがサメとかある種の昆虫とかヒグマとかをあげる。けれど本当に生物を最もたくさん日常的に殺しているのは実は人間である(夏には毎日のように蚊をたたき、毎日のように肉食・魚食している)。中にはなんの理由もなく「殺してみたかった」として無差別殺人すら犯してみせる。

なぜだ?

考えるに、人類はその誕生の日から、生きるのに精一杯でやってきたからではなかろうか?

人類は動物の中で最も貧弱な肉体を、その高度に発達した脳の代わりに手にしてしまった。アフリカの森林を追い出されたときから、それこそ回りは自分以上の力を持つ強敵ばかりになった。そこでは、まさに恐竜時代の小さな哺乳類同様に、逃げ隠れして生きながらえるしかない。それゆえに知恵を発達させ、脳は大きくできた。しかし窮鼠猫をかむのたとえもあるように、一旦脅威にさらされた場合、異常なバカ力を出すしかない。身を守るためには相手を完膚なきまでに叩き殺すまで戦わなければ、その意思を見せねば生きてはいけなかったのだ。

昔、日本のプロ野球で、西武ライオンズが常勝だったころ、宿敵をあおいできた巨人と日本シリーズで戦うことになった。結果は巨人が惨憺たる有様の0勝4連敗で完敗。勝利インタビューで西武森監督はいみじくもこう言った。

「それほど相手が強敵だった。完全勝利するしかなかったんだ」と。


だが、人類の異常なほどの殺戮の歴史を見ていると、そればかりではない、どんな動物にもないような征服欲が垣間見える。ここには自分が弱いからという言い訳は成り立ちえない自己顕示の意識がある。誰かがもうやめろと言わねば、どこまでも殴り、殺す、凶暴性は、戦っている最中から突然高まるようにみえる。

大虐殺にいたるホロコースト行為には、知恵があるからこそ、子々孫々まで殲滅せねばやり返されるという、信長的な論理が、意外に冷静に存在する。つまりそれが一瞬の逆上だけでなく、戦略としても中世武士にはあったようなのだ。

この遺伝子はどこからきたのかというと、旧人の、チンパンジーから引き継いできたDNAではないかとすら思える。

ホーキンスはこう説明する。

「人類は原始生物から30億年以上の月日を費やして現在の姿に進化してきた。ところが文明は長くて1万年程度の歴史しかもたない。1万年前の“ひと”と現代人は機能的にまったく同じ程度である。しかし文化はまったく異なる段階に来ている。
 人類は進化の段階で攻撃性を身につけてきた。ダーウィンの“自然淘汰”の考えによれば、恐らく偶然に攻撃性を有した固体が生き残り、その過程を繰り返すことにより攻撃性をDNAに固定化してきた。攻撃性を有するほうが弱肉強食の自然界では生存に有利だからだ。
 30億年の歳月をかけて攻撃性をDNAにしっかりと根付かせた人類である。この攻撃性は科学が今ほどの水準でない段階では人類にとって有利に働いてきた。しかし科学はDNAが想定できないスピードで進化している。現代の人類はDNAが制御できないほど強力な武器を持つようになったのだ。」『時間順序保護仮説』



また旧人ネアンデルタール人やデニソワ人の滅びた理由を、われわれ新人による殺戮あるいは食人とする遺伝子学者すらいる。そしてだからこそ生き残れたのだとしている。


人類は雑食である。あるときから動物の肉を食うように進化し、そのために能は大きくなった。それまでは森のゴリラやほかのサルと同じく果実など植物オンリーだったはずだ。ところが森 を出ていったサルのうち人類とヒヒは同じく肉食を開始。それだけ貧弱な動物には食物の獲得は難しいのが平原の生活である。同じように森の西側に出て行って肉を食物に加えたヒヒは、人類がさまよい出た大地溝帯の東側ほどの過酷で乾燥して何一つ植物が生えない世界には生きる必要がない。少ないとはいいながら、集団生活の自分たちよりも弱い生き物や、採集できる植物の皆無ではない世界に生きることができたために、人類のように知恵をつけずにやっていけた。しかし人類は、アフリカで最も環境の悪い東側へ出てしまった結果、食べ物を求めさまよい、旅し続けねばならなかった。それゆえに食物を探してアフリカを出る。


それは熾烈な争奪合戦だった。よい場所を捜し求め、そこを死守せねば絶滅する。そういう恐怖が、人類を凶暴な生物へ。同時にまったく正反対に、冷徹で、思慮深く、慎重な、現代人の抑制力も知恵で身につける。なぜなら仲間同士で戦い合えば、いつか種の全滅になりかねないことを、いつしか進化の過程で悟ったのであろう。

しかし一旦きっかけがあれば、再びかつての飢えた原始人に戻ってしまう。そのスイッチをいまだ人類は制御しきれないままだとなるだろうか?その遺伝子とはやはりチンパンジーやヒヒのゴリラよりも弱い体力から生まれた必然とするのはどうだろう?

ゴリラは、やはり今、森林では絶滅に瀕している絶滅危惧種だが、見かけの筋骨隆々は敵に対する抑止力だけで、実際は非暴力的な生き方をする。食物も植物食だけである。だから絶滅危惧種になった。植物食でやってこれたのは森林の中では彼らはナンバー1だったからで、それも見てくれのたまものだ。彼らは激しい威嚇で敵を寄せ付けないという手段を選び生き抜いたのだろう。

しかし人類はそういうわけにはいかなかった。弱いから集団を大きくし、するとそれだけ食料確保は困難になっていくというジレンマの中で、永遠の旅をし続けるしかない。サバイバルである。それゆえに、チンパンジーや旧人から受け継がれた凶暴性をいつまでも捨て去れなかったのではないか?


しかしそれゆえに過酷な氷河期もわれわれは乗り越えることができたとも言えるだろう。


ではいずれはこの抑制できにくい凶暴性は遺伝子から消え去るのだろうか?宗教や教訓ではそうならないはずがない。しかしDNAに刻み込まれた10万年の遺伝子は、おそらく消えることはないのではないか?

だからわれわれは仕方なくルールを持った。ところがそのルールや法律すら守れない殺人、暴力の持ち主が、その人の生まれた環境によっては残存した。肉食はそれを助長するようになった。人間は容易に自分で自分を傷つけることができない。ここにもヒントがあるように思う。極めて自己本位という知恵もまた知恵なのだからしょうがない。この矛盾に永遠に人類は悩み続けるしかないのだろう。