●気候環境と歴史シリーズ1
平安海進期(ロットネスト海進期)


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北川浩之1995 「屋久杉の年輪の炭素同位体比から明らかとなった歴史時代の気候」



8世紀~12世紀に起きた温暖化現象のひとつ。
縄文海進ほどの激しい海面上下運動はないが、それでも50センチ~地域によっては最大2mほど海面が上昇した。
年縞調査でわかった花粉や年輪の炭素量、あるいは考古学的検証からわかった現象。

Wiki平安海進によると
「ローズ・フェアブリッジ教授(en)の海水準曲線によると、8世紀初頭(日本の奈良時代初期)の海水面は、現在の海水面より約1メートル低かった。10世紀初頭には現在の海水面まで上昇した。11世紀前半には現在の海水面より約50センチメートル低くなった。12世紀初頭に現在の海水面より約50センチメートル高くなった[1]。」という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%B5%B7%E9%80%B2


日本の代表的遺跡は江戸川区の太日川(江戸川)の自然堤防及びその周辺にあったと推定され、現地では大嶋郷の集落の一部とみられる遺跡(葛飾区の新宿町遺跡など)があげられる。関東地方は総じてこれが顕著に見られる。

上図の四角くかこった部分を拡大した図


図表はふたつともに吉野正敏『古代日本の気候と人びと』2011 より






この屋久杉の炭素同位体比による推定気候変動図は西南日本の気温変動を量的に把握できる、現在唯一の資料である。

なおこの分析結果は、尾瀬ヶ原泥炭層の花粉分析結果(阪口豊 1995)から類推される古墳寒冷期(246~732年)、奈良・鎌倉・平安温暖期(732~1296年)、その後の小氷期の変化にほぼ比例している(吉野)。

「弥生時代末、1世紀・三世紀としだいに昇温して、四世紀にもその傾向がつづいた。」古墳時代には考古学上で、前方後円墳にはさかんに環濠がめぐらされたが、この気候分析結果と照合すると、それが旱魃を意識した農業用水をかねていたものだと推定される(吉野)。

また三世紀の魏志倭人伝に、倭人が多くの海産宝珠などを中国へ献納できた背景にも、こうした海水温暖や海進・海退が影響しただろうと推測できる。(吉野)

こうした気候を含めた環境変化と考古学の発掘遺物を考え合わせた結果、弥生~古墳時代の日本で複数発生しただろう大和政権の権力が及んだ範囲は

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この図のように、

その「全国支配は四世紀はじめころで」あると吉野は推定している。
図の淡い色合いの地域=瀬戸内、畿内周辺、太平洋岸東海地域など、気候が温暖で台風の少ない地域から3世紀~4世紀初頭にはすでに近畿政権に親しくなり、その外輪地域はやや遅れて四世紀中に掌握されていた。これは前方後円墳の各地の分布年代にに合致する。

ここで気がつくべきなのは瀬戸内地域よりも先進地であったはずの筑紫地域がその遅れて近畿に掌握された地域であることだ。つまり玄界灘沿岸の弥生先進地は4世紀まで近畿政権にまつろわなかったということに気がつかねばならない。

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小林謙一2007 

平安期~鎌倉初期が比較的温暖だったことは、平安京における天皇政権の安定を大きく助けたであろう。寒かった古墳時代や飛鳥・奈良時代が短期政権だったことも納得できる。


またこうした海進の起こった温暖期には、世界的に農業や産業が発達し、文明・文化が安定したことがわかる。ただし寒暖の波はかなり激しい上下運動を起こし、大きな環境被害も引き起こしていることも忘れてはならない。そのつど政権はゆらぎ、入れ替わりの小さないざこざを引き起こしたのである。

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当然それは、政権、権力者のひきいた民衆の酷使や無視も上下があったことになり、ひいては日本人の体躯・体格にもそれが少なからぬ影響を引き起こすという、環境による国民体格的視点も持つべきである。なによりも、気候や災害の大小は、当時の人間そのものの考え方にすら影響するのである。環境の歴史は人間の行動理念の歴史でもある。