縄文中期の八ヶ岳山麓地域の遺跡から、仮面をつけた土偶がいくつか出ている。
長野県茅野市の尖石遺跡群中ツ原の国宝「仮面の女神」はその代表だろう。
(井戸尻や尖石遺跡は遺跡群で、その中に複数のムラの遺跡がある)

茅野市中ツ原遺跡


この三角の顔が仮面かどうかは後ろ側から見れば納得する。




X線写真でさらに決定的

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どちらも「飛鳥の扉」サイトから http://www.asuka-tobira.com/


「仮面」はあきらかに実際の顔から浮いて作られている。
ウルトラマンの怪獣ベムラーのモデルじゃないかと思うこの土偶、類似する土偶が同じ富士眉月弧ラインでいくつか出ている。




山梨県韮崎市民俗資料館
後田遺跡出土

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またこれは仮面の女神と同じ長野県の辰野のもの。
辰野美術館(上伊那郡辰野町)









こちらは甲信地方からかなり離れた秋田県秋田市漆下
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(BGMありご注意)

穴があるのはひもを通すためのものだろうか?





またこういう「小またの切れ上がった」スリムな女神も出ている。

「縄文の女神」(国宝)  山形県舟形町 西ノ前遺跡  縄文時代中期(2,500BC頃)
  

まるで現代のモデルのようなスタイルで、とても日本の縄文人の姿とは思えないほど。製作者の技術と着想に舌を巻く。縄文土器の中でも傑作だと思う。




立像でそれらしき土偶は、よく再検証すれば、すでに出ているものの中に、ほかにもこれは仮面かも知れないというものはいろいろあるだろう。仮面は三角形だけとは限るまい。円形もあるはず。

ほかにもこういう最古様式の土偶でもある。
青森県三内丸山遺跡(縄文初期)

同じように三角形の顔はおそらく仮面ではないかと見える。





これも仮面をかぶっている。



三内丸山遺跡では実は実際の土製仮面が二つばかり出ている。
遮光器仮面と呼ばれているもの。最古の仮面だが、小さいので土偶用か?


ということは例の亀ヶ岡の遮光器土偶の顔も、実は仮面をかぶった姿なのではないか?ということになるだろう。

北海道の土製仮面はこれだ。縄文晩期。



墳墓の上に立てられた柱にひっかかっていたと考えらている。
出土状況は墓の下に転がって出ている。
おそらく死者のための祭祀(ないしは死に伴った祖霊祭祀)を執り行ったあとに、墓柱にひっかけて誰の墓かがわかるようにした「墓標」だろう。もしかすると死者の顔に似せて作られたのかも知れない。


これは四国の縄文後期。徳島県矢野遺跡http://awakouko.info/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=96


真脇遺跡出土最古の土製仮面

怒りの仮面とも呼ばれる。巨木遺構の出た真脇で仮面が出たことは、巨木建設と仮面祭祀の関連性の証明のうえで重要である。




これらの仮面の当人たちはまずはイチとかイタコとかウタキと日本各地で呼ばれるようになる巫覡(かんなぎ)=シャーマンだっただろう。つまりのちの卑弥呼のような女酋長である。だから卑弥呼が縄文人であったとしてもあながちおかしくもない。もっとも、卑弥呼的な巫覡は半島や江南にもいたし、オロチョンのような北方にもいただろうから、卑弥呼が伽耶から来たという考え方もおかしくはない。


こうした仮面の、東アジアで最古のものは殷・周時代のものが中国で出ているが、その関連は不明である。

一級文物 金製仮面(きんせいかめん)
金製 殷~西周時代・前12~前10世紀 幅4.9cm
四川省成都市金沙遺跡出土 成都金沙遺址博物館蔵
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東京国立博物館


黄金製ということはこの仮面は巫王クラスの死者の顔にかぶせたか?
これはもう縄文の仮面とは違い王の祭祀のものだろう。しかしいずれにしても江南でも葬儀で仮面による祭礼がされたようだ。

縄文の仮面は、しかし葬儀の祭祀でも使われたが、ほかにたとえば巨木建造物とか神殿を作り上げた際に、酒宴で使われたおめでたいものだった可能性もあるのだ。



東北から甲信越で出てくる傾向が強いが、筆者は中部地方、特に飛騨あたりから出てくるんじゃないかと期待している。



その理由は飛騨は縄文高層巨木建築物の行き着くところであり、白川郷などの縄文からの流れであろう合掌造り建築は、それ以前までに、日本海の姫川(真脇とか桜町などの巨木遺構がある)あたりから岐阜への道ができており、飛騨高山周辺には縄文の木の匠が入り込んだと考えられるからだ。


仮面で縄文から弥生、弥生から古墳、古墳から飛鳥、飛鳥から鎌倉時代までつなぐことは不可能ではない。そう筆者は考えている。


有名な弥生後期~古墳草創期の遺跡である桜井市の3世紀中盤の纒向遺跡からは、ひたすら縄文土偶の仮面を思わせる木製仮面が出てくる。



これは纒向石塚のものだが、纒向の溝遺構では神殿らしき朱塗りの建材が出ており、古墳や神殿の建築にたずさわった工人たちが祝宴を開いて仮面舞踏に興じたか、あるいは事故のないように祈願してのことか知らないが、即興でこうした鍬を代用しての仮面を作ったらしい。

木製仮面は同じ奈良の桜井市にある大福遺跡からも、こういう簡便なものも出土している。




これは纒向よりさらに古い2世紀のものである。



これらの主は縄文の蝦夷匠だった可能性と、いまひとつは木の氏族だった紀氏の木部工人だった可能性の二点での考察が可能だろう。



これまで何度か書いたように、飛鳥時代、孝徳~斉明女帝の年間に、百済が新羅や高句麗との軋轢から倭国に援助を求めてくるようになる。そのころの百済王は昌王であるが、百済の王興寺と日本の飛鳥寺の五重塔基礎から同様の舎利箱が出て、ふたの裏側にともに昌王の名前があった。両者は同じ伽藍様式で建てられた。つまり日本最初の寺院である飛鳥寺は百済の様式で作られたのであり、その時代に記録では百済王が建築博士らを送り込んでいたことも書かれている。

その斉明(皇極)の時代の記録には、同時に飛騨の蝦夷を都に呼んで?(俘囚であったのかも知れない)彼らを建築博士らと同席させて饗応したとある。なぜそんなことをしたのか?飛鳥寺建設に必要な大木が飛騨にあり、それを育てていたのは飛騨の蝦夷だったからにほかならない。つまり百済から来た建築士や左官らと、材木の切り出し担当であった飛騨蝦夷たちの顔合わせと懇親のために女帝は彼らを宮中に呼んだのであろう。

ということは、大福や纒向での前例があって、大構造物建造には飛騨の匠たちを使ってきた流れがあって、斉明女帝もそれを知っていることになろう。もしようなら飛鳥の人々は卑弥呼のことも知っていてもおかしくはないことになるが、記録に卑弥呼の名はない。


さて、もうひとつの可能性である紀氏である。
鎌倉時代に武家の間でも仮面が流行したが、それは宮中の技芸面、雅楽面を真似たものである。それがのちに日本の各種の仮面に直接影響していった。その中心的製作地
に鎌倉と紀州がある。


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和歌山県では今も、面造りが盛んで、県の推進する工芸品になっている。
また紀州というと漆師や木地屋も多い。紀州漆器は黒江漆として有名である。

なぜ和歌山かというと、そもそも紀氏の本拠地だった意味合いが深い。
紀州の紀国は木の国だったからであるが、そもそも彼らが伽耶、壱岐対馬、九州基肄郡と渡る間で、彼らが木の種を持ってきた伝承は、『日本書紀』においてもスサノヲの子、五十猛(いそたける、いたける)が紀州に木を植えた話から見える。紀氏がスサノヲの子孫を名乗る理由はここにある。

しかしその紀氏が、もともと縄文人だったとしたらどうだろう?
大分県国東半島の岐部にある岩倉には、古墳と木製仮面祭祀である「けべす祭」が伝わっている。そのけべすがかぶる仮面がこれである。


けべすの正体はまったく不明。
火を奪い合うことから古代祭祀との関係が思われる。
岐部はのちにキリシタンの宣教師となったペトロ・カスイ・岐部を生むのだが、このキリシタンバテレンの多くは実は被差別民だったことはあまり知られない。紀氏は中央では出世を閉ざされた氏族で、葛城の同族だった。敗者なのである。

筆者は大分で同級生に「きの」さんは二人ほどいた。要するに「紀」「紀野」さんであるが、大分には多いのである。彼らは古代木部であろう。

記紀に登場する葛城や物部や和邇などの氏族には、どうこかしら彼らが縄文人でないと考え付かないような行動や祭祀が垣間見えるときがある。


前回立柱祭祀で書いておいた物部氏の墓らしい小墓古墳の四本立柱遺跡などはまさにそれであろう。


天理市石上にある物部氏の杣乃内古墳群。
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杣之内という地名にすでに蝦夷杣(そま=木樵)のいたことが偲ばれる。
往古、樵など伐採に携わった人々の職称は「杣・番匠 そま・ばんじょう」だった。
だから杣・番匠地名は蝦夷匠由来地名だと考えられる。

例えば大分県には佐伯市に番匠川が流れている。それをさかのぼって行くと高千穂へ抜けられ、豊後側に緒方町、大野町などがあって、例の緒方惟栄(これよし)伝説の中心地になる。惟栄の祖先である惟基は肥後菊池氏に婿入りして五人~七人の子を設けたと『高千穂古今治乱記』「塩田村」の記録にはあるが、彼らの苗字は全部、臼杵・佐伯・大野・緒方など豊後の地名であり、佐伯市の「さいき」は「さえき」で、蝦夷俘囚を管理した佐伯氏(空海の祖先)に由来する。だから緒方はそもそも蝦夷管理者であり、あるいは本人が蝦夷俘囚だったかも知れないのである。

すると大神一族、阿蘇一族、諏訪の神氏・金刺・諏訪氏なども蛇の氏族としての縄文系であったかが出てくることになる。


大神氏は大三輪(奈良の大神氏)の子孫だと自称する宇佐神宮の神官だった名前だが、それと宮崎・大分県境の大神氏が関係あるかどうかはまったく不明である。
『太平記』などで緒方三郎は義経をかくまい、奥州逃避行の手引きをするのだが、つまりそれは東北を緒方が知っていたということだろうし、東北に尾形の姓名が多いことと豊後の緒方がなにか関係した可能性は捨てがたい。


また塩田地名と大蛇苧環神話は同居し、それは諏訪の三郎(甲賀三郎)伝説(『神道集』)や泉小太郎伝説(『諏訪大明神絵詞』)でも登場する。塩田はつまり蝦夷岩塩や海人族藻塩に関係する地名である。泉小太郎は信濃小県(ちいさがた。真田氏本拠地で有名に)の塩田出身である。


今後、仮面の出土は注目していかねばなるまいと考えている。期待できる遺物である。






諏訪、阿蘇、常陸、そして蝦夷、紀氏・・・蛇と巨木と仮面でつながっている。


諏訪祭祀、御頭祭と薙鎌神事はすでに過去分析済みである。
ほかに知りたいことがあればご連絡を。これにて諏訪祭祀完全攻略は一旦終了する。ご愛読ありがとうござんした。なお三輪山伝説の分布では朝鮮『三国遺事』などに、琉球では宮古島などに伝承、中国にも存在する。稲作とともに縄文時代中期くらいまでにやってきたと考えられるらしい(谷川『蛇』)

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また諏訪大社、みしゃぐじーについてはまたいずれはっきりしたら書くつもり。
神長の正体も。縄文か阿蘇氏か。







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また記事本文と関係のないコメント、筆者が当然知っていることの上塗りコメはされませんように。つまり筆者が古代のどこまで知っているかはこのブログをあらかた呼んでいただけばわかることですから、いきなりコメントされますとすぐに筆者は「この人は当該記事だけ読んで書いてきた」「努力家ではない」「しろうとだ」「知識をひけらかしにきただけのやからだ」と判断することになります。そうなるとその人はきっと傷つくことでしょう。無視されますから。だから生半可なことは書かないようにこの10年以上何度もここにご注意してきたつもりですが、夏休みになるとまたぞろそういうのがやってきます。おいさつもなしに書き込むのは彼が子供だからでしょう。