速報!
英国、EU離脱確実に!

どうなる欧州?
確実なことはEUは弱体化するので、西側全体の劣勢へとつながるはず。
これは中国・ロシア・北朝鮮などには「しめた!」である。この機に乗じて、彼らが中東まで含めて新たな連携を始めれば、世界の構図が切り替わりかねない。経済だけでなく政治的に非常にまずい。

英国は日米との連携を深めるしかない。世界が新たな価値観へ向かって動き始めた。








意外に知らない常識

●天照大神を祀る神社はほとんど近畿にはない
天照大神を祀る神社を神明神社といい全国各地にあるが、その総本社は神宮(伊勢神宮)の内宮(皇大神宮)である[2][7]。皇大神宮は三種の神器のうちの一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を御神体として安置する神社である。

檜原神社(元伊勢) 奈良県桜井市 いわゆる天皇の本家本元であるはずの飛鳥や大和地方で、ほとんどアマテラスは祭られてはいないことがいかにアマテラス祭祀がマイノリティであったかがわかるはず。あとはほぼ地方にしか存在しない。

宮崎県高千穂町岩戸には岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸と天照大神を祀る天岩戸神社がある。 東本宮は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祀り、西本宮は大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀る。

日前神宮・國懸神宮日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。

伊雑宮 三重県志摩市磯部町 皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。
瀧原宮・瀧原竝宮 三重県度会郡大紀町 ともに天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)を祀る別宮。瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は荒御魂(あらみたま)が祀られるとされる。」Wiki天照大神


日向大神宮 京都市山科区日ノ岡 
廣田神社 兵庫県西宮市 天照大神の荒御魂を祀る。旧官幣大社で日本書紀にも記される。

皇大神社 (福知山市) 京都府福知山市大江町

山口大神宮 山口県山口市

大日霊貴神社 秋田県鹿角市八幡平

八倉比売神社 徳島県徳島市国府町矢野 社伝に御祭神・大日孁尊(天照大神)の葬儀の様子が記されている。

籠(この)神社  京都府宮津市 天照大神と御孫神 彦火明命(饒速日命・ニギハヤヒ )祀る。 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称される。ただここの主祭神はそもそも外宮の豊受大神である。

西寒多神社 大分県大分市 豊後一ノ宮西寒多(ささむた)大神として天照皇大御神を祭るとされるが、もともとは月読命を豊後大友氏が祭った鎌倉~室町あたりの新しい神社であると考えられる。数年前までアマテラスは摂社で脇神だった。


これ以外は戦時中に置き換えられたケースと、最近神社庁によって置き換えられつつあるものとが若干あるのみだ。

そもそもこの神が飛鳥京や平城京や平安京に置かれずに周辺にのみ追いやられていることこそが、アマテラス信仰の、朝廷内でさえ短期な形態であったことは歴然と見えてくる。



●神社の例祭で夏至を祭る神社はほとんどない
『神祇令』によれば神社で行うべき例祭は
「2月の祈年,3月の鎮花,4月の神衣・大忌・三枝・風神,6月の月次・鎮火・道饗,7月の大忌・風神,9月の神衣・神嘗,11月の相嘗・鎮魂・大嘗,12月の月次・鎮火・道饗という年間19の祭りを,神祇官が行うべきものとしてあげている。」コトばんく 神祇令
神祇資料集成「祭祀」に全祭礼一覧があるhttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/saishiindex.html
やはり上記19の祭礼しか記載はない。
つまり日本の神社祭祀では夏至祭りも冬至祭りもやらねばならないという既定がなされていない。

神社例祭では夏至の例祭を「夏越の大祓」とか「ナゲシ・なごしまつり」
と呼ぶ。
しかしこれを大々的に行っている神社はと言うと、
三重県伊勢市二見ヶ浦の 二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)夏至祭り
くらいしかない。
「なごしのおおはらえ」や「なごしまつり」は全国神社で執り行われるが、そのほとんどは夏の疫病退散、大風封じなどを主眼とし、夏至・冬至の日光への執着は神社祭祀には感じられない。
夏至や冬至を祝うのは北欧の風習で、日本では最重要な祭りは新嘗祭及び神嘗祭、さらに春の田植え祭りも必ず氏子主導で大々的に行われる。

「ただし、神祇令や『延喜式』にあるような祭祀形態が史料に見え始めるのは、「新嘗」や「広瀬竜田祭」が確認される天武天皇の時代(673-686)から、律令が整備されるまでの8世紀初頭にかけてのことである。なお、丁度この時期は中央集権国家の形成期として重視されており、当時の朝廷祭祀制度と国家形成との関連性が多く指摘されている。
 祭祀の対象は「神祇」「天神地祇」「神」などとされる。『令集解』の職員令神祇官条・「神祇」の注釈の多くは、「自レ天而下坐曰レ神也。就レ地而顕曰レ祇也。」(跡記)とあるように、「神」と「祇」とを区別する。さらに神祇令天神地祇条の義解には、「天神者。伊勢。山城鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。地祇者。大神。大倭。葛木鴨。出雲大汝神等類是也。」と具体的な神名が挙げられているが、こうした区別が祭祀の実施にどの程度影響を及ぼしていたのかは不明である。ただし、平安前期まで人が「祭祀」の対象になる事例がない点は、『令集解』の令釈に引く『周礼』及びその鄭玄の注釈で示される、「鬼」とされる人へのまつり「享」と、天の神に対する「祭」及び地の祇への「祀」の区別通りである。」「神道・神社史料集成-古代」
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/saishi_c.html

よくレイライン愛好家サイトに、冬至・夏至の日の出、日没の方向と神社様式などについて熱い記述があるようだが、残念ながら日本の神社はさほど冬至・夏至に執着がないというしかない。伊勢の二見ヶ浦以外での太陽信仰は今ではせいぜいが正月の民間行事、観光色に左右されて始まったものが多い。要するに日本人は太陽信仰やアマテラス信仰に有事や観光以外では意外にクールである。日本でもっともたくさん祭られ、行事も多いのは災害神スサノヲや大国主なのである。それは当然の話で、まともな医療も科学もなかった当時、民間は、特に農家では災害が最大の「祟り神」だったからだ。

古代宮中でもおそらく最も重要なのは太乙=天子=北極星ではなかったかと思える。この理由は、古くは弥生中期にそれまでの中国南朝(神仙思想・大地母信仰・主観・神秘思想)尊崇から魏の勝利によって北朝(儒教・仏教・客観政治)へと尊崇が変化したことが大きかったと考えられる。ということは道教の天文・遁行に造詣の深かったと書かれた天武~文武までの数代だけが特殊的に、天武(大海人皇子)の乳母方(乳部)であった海人族の持っていた太陽信仰=アマテラス信仰を復興させたということになる。この短期的例外のアマテラス信仰はそれゆえにおそらく仏教を重視した聖武時代あたりにはるかな遠隔の伊勢に置かれた可能性もあるだろうがその証拠はない。
しかし天武の妻である持統女帝の記事には、その関心事のほとんどが風水害の防御祭祀に関するもので占められており、為政者にとっても災害の神を鎮護することへの関心が高かったことを示しているのである。新嘗が皇室最重要の祭祀であることからも、農作物の災害、治水、大地震、台風などの日本列島独特の「災害大国」であることがよくわかる。



●ところが稲は主食ではなかった
現代の若い日本人は、ごはんと言えば白いと思っている。
ところが日本の古代では白米は民、武家にとっては主食ではなく、宮中でさえも、雑穀・豆食が奨励され、健康に気を使っていた。白米のほとんどは神饌であり、また海外との交易の交換品である。また江戸時代まで、日本人の民間では米は食されず、すべては武家に献上、神社へ献上である。日本人が現代のように完全に白米食になれたのは戦後しばらくして高度成長期(昭和40年あたり)になってからである。それまで米は米穀通帳によって国に管理される貴重品であり、外貨をかせぐ重要な輸出品であり続けている。民衆の食卓では米には必ず麦がまぜられたり、芋や大根や雑穀がまぜられる貧しい地域がほとんどだったのである。今のような真っ白なごはんが食べられるようになったのはわずか50年ほど前である。

また水田風景が日本人の原風景となったのは江戸時代以降。幕府による新田開発以後のことで、棚田もその時代以後のものである。それまでは田と畑は常に混成して存在し、ひろびろとした水田ばかりの農地のほうが少なかった。



●奈良市ど真ん中平城京で広大な水田跡出土
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160624-00000016-mbsnewsv-l29



平城京に弥生時代の水田の跡 長屋王邸近くの一等地

朝日新聞デジタル 6月23日(木)19時47分配信
 平城京が営まれた奈良市中心部で、弥生時代前半(約2300~2400年前)とみられる広さ計5500平方メートルの水田跡が見つかった。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が23日、発表した。平城京跡で弥生時代の大規模な水田が見つかったのは初めて。

【写真】今回見つかった水田跡(左下)と平城宮跡(右上)=23日午後、奈良市、朝日新聞社社ヘリから、井手さゆり撮影
写真水田遺跡の斜め上にあるショッピングセンターが長屋王居宅である。


この遺跡の発見はすでに「赤米の歴史」について書かれた書物で筆者は知っていた。
いまごろ公開されたかの感は否めない。

警察署が立ち退いた跡地にそれがあった。ほかにもまだいろいろな遺跡が官公庁や施設の移転、SCによる開発で発見されている。今回は長屋王居宅のすぐそばで見つかったが、前回もその近くのSCそばで木簡が大量に出ている。つまり奈良市の地下は宝の山がざくざく埋まっているわけで、このままいくととうとう邪馬台国の決定打すら出てくるのかも知れない。どんどん移設していただきたいものだ。

近畿考古学が昨今非常に古代遺跡発掘で成果をあげているが、その理由は政府から多くの補助金を確保できたからである。それはつまり国も、日本古代の成立というアイデンティティに対して興味が深い=いずれまた皇国史観を復活させたい?まさか。

油断するなってことだろう。









●古代から稲は意識して品種をまぜこぜに植えていた
最近の科学でも稲は雑多な品種を近くで植えるほうが、自然交配が偶発的に強い米やうまい米を作るという発想が広まり、農家も田植えのときに、いろいろな品種の苗を隣同士で植える傾向が強くなった。これは縄文時代から弥生時代でもそうであったらしい。科学的かどうかは知らないが、経験則で、最初からそうしていたらしいのだ。

だから日本の水田遺跡からは温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカ、あるいはジャワニカ、インディカの亜種らしきものまでがいろいろ出てくる。いわゆる「ノギ」(稲穂から伸びてくる長い毛)のないうるち米のジャポニカだけでなく、ノギのある赤米や熱帯ジャポニカの炭化米が出て遺伝子調査も詳細になされている。

アフリカ原種米以外のアジア米は、インドやインドシナのような高温多湿地帯がもともと最適な植物だが、中国江南へそれが伝播していく最中に、すでに何種かの交雑が置きている。やがて交雑を意図的にやりはじめるとすぐに華北のような栽培不適地域にも順応した品種が生まれている。日本でも最初は、江南から朝鮮海岸部経由ですぐに佐賀県菜畑に入ると、これまたすぐに日本海で北上しはじめ、あっというまに東北で九州の土器、装飾品とともに米の栽培は始まった。これは栽培種オリザニンの分析でも証明できている。また粟や稗も同時に食べた。奈良時代には白米だけでなくこれらの救荒食物も重視していて、常に予備として栽培するよう奨励している。



だから古代人は白米でなく、赤や黒やムラサキがまじった米を食べていただろう。







●九州のおびただしい甕棺被葬者には縄文人も江南系中国人も
いろんな奴が来ていたんですよ。
日本の甕棺墓はその歴史の途中から、それまでの幼児だけでなく、大人も埋葬されだす。それがちょうど倭国大乱の時代1・5世紀前後のことである。すると死者に霊的な思い入れが深かった古代人は、土居ヶ浜でもそうであるように、敵も丁寧に埋葬した可能性が高い。そうしないと祟られるからだ。その証拠に首がない。

首には霊魂が宿るとされ、首狩り族なども最強の勇者の首を刈りとるものである。ではいったいその首はどこにいったのか?

おそらく柱に指して晒し、村の入り口に鳥居のように置いて魔よけにしたに違いない。だから首がない甕棺被葬者は敵つまり在地先住の縄文時代人であった可能性が高いのだ。







●山口県の周防灘の小島「祝島」の八幡は比売許曾を祭る。
この小さな島は「周防灘にあるイワイの島」と記録された比売許曾の神である。島の伝承に、宇佐から流れ着いた八幡神のみしるしを拾い上げて祭ったというものもある。

風土記では「さばつの夏磯姫は海を船に乗って神功皇后に恭順の意を伝えにやってきた」ともあり、このさばつの海は周防灘である。


●出石神社にアメノヒボコは祭ってなく、御出石神社に阿加流比売が祭られているという謎の伝承

御出石神社が今もあるかどうかは知らないが、出石神社の祭神はアメノヒボコが持ってきた八種の神宝などであり、実はアメノヒボコ自身は祭られていないのだという。そしてかつては御出石神社なるところにヒボコの妻らしき姫が祭られた・・・墓である?との伝承がある。出石神社の禁足地がそれか?