出雲を大国主からすったもんだの末に譲り受けたにも関わらず、なぜか天孫は筑紫に降臨する。
天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」(「今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之」『古事記』)と言った。
天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の日子番能邇邇藝命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」(「僕者將降裝束之間 生一子 其名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也」『古事記』)と答えた。邇邇藝命は高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間の子である。
※息子を降臨させようとしていたアマテラスに孫のニニギが唐突に生まれ、父忍穂耳は降臨をニニギに譲ると言い出す。『日本書紀』持統天皇紀では、女帝持統は息子の草部を皇太子にしたかったが、草部が若くして死んだ(暗殺の可能性も)ので、しかたなく孫の文武が皇太子となり天皇に即位する。
それで二神は、邇邇藝命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。
「皇孫は天盤座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲(あめのやえくも)を押し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)に天降き」『日本書紀』天孫降臨
※ここでは「襲」という語が決め手になっている。日向も岩戸も全国各地に存在するが、この「襲」の一文字が日向国最南部(のちに薩摩国)の熊襲の「曽於」郡ではないかということを示している。とは言いながら「襲」は葛城族の「襲津彦」という人名もあり、暗に大和をも匂わせているとも考えうる。
「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』天孫降臨
この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である
※韓国に向かいというけれど、霧島も高千穂もまったく朝鮮半島には向いていない。日向は東に開けた土地で、朝鮮半島とはほど遠い九州東南部になる。笠沙の岬なる地名は明治以前にはどこにも存在しない。つまりこの記事は筑紫の地形事情をまったく頓着しないで書かれている。
「邇邇藝命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。邇邇藝命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇藝命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8
※「あたつひめ」の「あた」は今の霧島の北にある吾田の姫をさす。宮崎県と鹿児島県の県境である。したがって記紀双方の文面から、そこが霧島であることは疑う余地がない。ニニギが最初に娶った二人の姫はつまり霧島の阿多隼人らが祭ってきた山の神である大山積の娘であり、その後、直系の神武もまた最初の妻は日向・薩摩に由来する在地の姫(阿多の小椅君(をばしのきみ)が妹、名は阿比良比売(あひらひめ・姶良津姫))である。ところがその子供(長子・手研耳命 たぎしみみ)は、やがて神武東征のはてに大和で神武が娶った摂津三島の開闢の地主・三島溝咋の孫娘(媛蹈鞴五十鈴媛 ひめたたらいすずひめ)との間の子供(神八井耳命・かむやいみみ=多氏の祖)たちに誅殺されてしまう。このとき叔父であるのが大阪市鶴橋の日本最短の小橋を築いたとされる大小橋命(おおこばし)である。この神は阿多隼人の祖・小椅君のことか?赤留比売神社そばに祭られる。
天孫降臨・神武東征記事から見える不思議。
1なぜ出雲ではなく九州だったのか?
2なぜ南九州の霧島だったのか?
3記紀はまったく九州の地の利に詳しくない。つまり日向の曽於郡がまるで北部九州にあるかのように勘違いしている。そもそもなぜ降臨する聖地が韓国に向かっている場所である必要があるのか?
4阿多隼人が早くも天孫降臨の援助者・その姫が天孫の最初の妻としてある。
5神武も薩摩の姫を娶るが、なぜか東征先でその血縁を切り捨てる。
6その切り捨てた氏族が多氏の祖先である。
九州の地形に無頓着であることについては、ほかにも都怒我阿羅斯等、アメノヒボコ伝承を書く際に「姫島が直入(なおいり)の郡の北東にある」と書く。しかし豊後直入郡は海からはるかに離れた内陸部にある。こうしたことは、記紀天孫降臨ロケ地設定が明らかに観念の所産であることを証明する。
朝鮮半島からの現代の亡命地で上位なのは、福岡県、新潟県、大分県、鹿児島県である。つまりこれらは彼ら亡命者が先祖代々来ていた土地であることを知っているということである。そしてここを中継地として、やがて「瀬戸内海は経由せず太平洋周りで」大阪や東京に向かう。なぜなら瀬戸内海の入り口関門海峡の山口県に海上保安庁の監視所があるからである。新潟県からは信濃川経由が考えられる。
なぜ天孫降臨の地は南九州想定なのか。
なぜ最初の母方は南九州なのかである。
「この天孫族」はである。
「あの天孫族」もいたのである。
これまでも何度か武内宿祢の「うち」地名がなぜか隼人の「おおすみ」地名と隣接することを書いた。
なぜ最初の母方は南九州なのかである。
「この天孫族」はである。
「あの天孫族」もいたのである。
これまでも何度か武内宿祢の「うち」地名がなぜか隼人の「おおすみ」地名と隣接することを書いた。
『日本書紀』が宿祢の血脈を蘇我氏に託したとすれば、それは藤原鎌足の滅ぼした氏族なのであり、『日本書紀』の中で神武の南九州での妻とのあいだの子を、多氏の祖が殺したのならば、それは置き換えれば藤原氏がそもそも多氏に対応した存在であることを暗に匂わせているのではないのか?
そういうことも想定してみても面白いかもしれない。
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