大地震以来、缶詰にはまったKawakatu。
くじらの大和煮。
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「四谷赤坂麹町(よつや あかさか こうじまち)チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちションベン。白く咲いたか百合の花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い。」

おなじみのフーテンの寅さんの切符のいい「口上 こうじょう」。
その中にはこういうのもある。

「たいしたもんだよ蛙のションベン見上げたもんだよ屋根屋のふんどしってね。」


(口上やテキヤさんについての説明は下に、寅さんの口上全文も下に説明)


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お向かいさんの屋根やのふんどし・・・じゃなくて普請。始まった。



なぜ急にそんなことを書いたかというと、今日から、地震で破損したお向かいの家の屋根の普請が始まってなかなかでかい音が聞こえ始めたからだ。昭和30年以降よく聞こえていた「復興の槌音」ともいうべき音が聞こえ始めたら、ああもうこの町は大丈夫だなという印である。先日から、大分中部=由布市を中心とした地域(別府市、由布市由布院町、湯の平町、庄内町、九重町など)でまた大きな地震があり、当家のほうへも大きな揺れをもたらした。熊本でも間隔はあいたがまだ余震が続いている。間隔があくと、かえってどっきりとする指数が大きくなる。安心は禁物である。

筆者はここ数日、PCのアップデータであっぷあっぷしている。なにしろ五年ぶりにリカバリーしたものだから山ほどの更新データがいっときにやってきて、失敗したインストールがいくつか出てしまい、今度はアップデータ機能がいやいやをするようになったのである。それがなかなか手ごわいのでブログ記事書いている場合ではないのである。すんませんなあ。

そんな中で、これだけは書いておこうと思わされたお向かいの屋根やの修理。



たいしたもんだよ今度の地震、
見上げたもんだよ屋根屋の普請ってねえ。







●テキヤと口上
香具師    やし〔「野士」の意という〕〔縁日などに〕道ばたで手品・居合抜き・こま回しなどをして見せた後、安い歯磨などの薬や香具類を売りつける人。テキ屋。【表記】普通、「{香具}師」と書く。    (新明解国語辞典 第五版より)

香具師の一つのイメージとしての典型が、渥美清が演じた「フーテンの寅」こと車寅次郎である。(ただし正確に言えば、寅さんは香具師に分類されるうちのひとつ・「的屋(テキヤ)」である)g.com 2016-03-31
笑えるコピペ『神と人間の狭間(はざま)に居る者』:哲学ニュースnwk
blog.livedoor.jp 2016-03-31
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%B6%F1%BB%D5



●「やし」の語源
「「やし」の由来については諸説ある。

 薬師(やし) - という江戸時代の薬の物売り[6]と同じように、香具師という薬を売っていたものが合わさったという説。鎌倉時代以前には藥師も医師も「くすし」と呼称されていた[7]。

   弥四 - 薬の行商を始めた者の名が「弥四郎」とされ、そこから「弥四(やし)」とされたとする設。

    野士 - 身を窶した武士が飢えをしのぐために薬を売っていたことから、野武士の「武」が略され「野士(やし)」になったとする説。

     野師 - 上記の「野士」の扱う商品に香具が多かったために、「香具師」に「やし」の読みが当てられたとする説。ゆえに、元は「野士」と「香具師」という別々の語であった。

    「山師(やまし)」を略したとする説。


●言葉の派生
  (やつ、やし) - 一部の電子掲示板(主として「2ちゃんねる」)で、奴(ヤツ)の代わりに使われているインターネットスラングのこと。片仮名の「ツ」が「シ」に似ており、「やし」とキーを打つと「香具師」に漢字変換されることに由来している。

この用法においての最初の出典は、1999年2月10日のあやしいわーるど@本店 昼の部まで遡る。固定ハンドルネーム「DTP」を騙るものが使い始めた。この時、ハンドルネーム「DTP」のなりすまし騒動があり、ばれて槍玉に挙げられた騙りの犯人が途中から「DTP@香具師」と自虐的に自分のハンドルネームに用いていた。「騙ったやつ」→「やつ」→「やし」→「香具師」の意味であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%85%B7%E5%B8%AB#.E8.AA.9E.E6.BA.90


的屋(まとや)、香具師(やし)、三寸(さんずん)とも呼ばれる。一般には馴染みが薄いと思われるが近年までは、よく使われた通り名であり、的屋(てきや)、香具師、三寸は辞書[2]では、同じ説明がなされている場合が多い。職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農黄帝」を祀り、独特の隠語を用いる者が多いため狭い世界では神農(しんのう)とも呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E5%B1%8B


香具師(やし)
    芸や見世物を用いて客寄せをし、薬や香の製造販売・歯の医療行為をする者をさし、名称は他にも、野士・野師・弥四とも表記し、すべて「やし」と読む。由来は、野武士が困窮して薬売りに身を投じたという説や、弥四郎という者が薬の行商の祖と言われる事など諸説ある。

    的屋の別称とされる神農の神は、農業と薬や医学の神であり、的屋の源流とされる香具師は江戸時代において、薬売りと、入れ歯の装丁・調整や販売、虫歯などの民間治療の歯科医でもあり、このことから神農の神を信仰していた。また中華文明圏に由来する神農の神は、そもそも漢方薬の神であり、日本においても薬は漢方由来のものが歴史的にも多く存在した。これらのことは、的屋と香具師の繋がりが示されるとともに、的屋が日本古来の薬の神を信仰しなかった、要因の一つと考えられる。

的屋(まとや)
    矢師(やし)ともいい、近代ではハジキとも呼称された。弓矢を使った射的場を営むものであるが、「吹き矢」を使った「ぶん回し」と呼ばれる回転版を的とする射的や、「とっこいとっこい・どっこいどっこい」と呼ばれる日本式のルーレットも江戸時代から存在していた。これら射的やくじ引きなどの賭け物(景品交換式遊技)を生業にする者。

    平安時代の公家が楊弓という弓矢で遊興を楽しんだ。座ったままで行う正式な弓術であり、対戦式で的に当った点数で勝敗を争った。後に江戸時代には、この公家の楊弓と庶民の神事である祭り矢・祭り弓が元になり「的屋(まとや)」が営む懸け物(賭け事)の「的矢(弓矢の射的遊技)」として庶民に楽しまれ、江戸時代の後期には隆盛を極め、大正時代ごろまで続いたが、江戸時代から大正に至るまで好ましくない賭博や風俗であるとされ、度々、規制や禁止がなされた。この的屋(まとや)が後の露天商を生業とする的屋(てきや)の起源の一つとされる。
    「的矢」は、上方では楊弓場(ようきゅうじょう)、関東で矢場(やば)といわれ、祭礼の立つ日の庭場や遊郭で出店や夜店として、弓矢を使い的に当て、的の位置や種類により、商品や賞金が振舞われた。 また客が弓矢を楽しむ横からの矢の回収は危険であることから、関東の的屋の間で、危ない場所を矢場(やば)と言う様になり、危ない事を「矢場い・やばい」と表現し、隠語として使用した。この「やばい」という隠語は的屋を中心に堅気でない者の間に広まり、昭和40年前後には当時の若者に広まった言葉である[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E5%B1%8B


業平
墨田区の地理的中央部に位置し、本所地域内にあたる。北で北十間川を境に対岸に押上、東で横十間川を挟んで対岸に江東区亀戸、南で横川、西で大横川を挟んで対岸は吾妻橋および東駒形と隣接する。町域の東辺をもって墨田区 - 江東区境を成す。町域中央を南北に四ツ目通りが縦断し、その地下を東京メトロ半蔵門線が走る。町域の西側から東へ業平一丁目、同二丁目、同三丁目、四ツ目通りの東に同四丁目、同五丁目が並ぶ。隣接地(所在地は押上一丁目)には東京スカイツリーがある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD%E5%B9%B3

(江戸で隅田川の東は江戸じゃないという時代もあって、要するに都電などでそちらへ行けばわかろうが、隅田川を渡るといきなりビルが減って下町情緒あふれる景色になる。つまり開発が遅れたのである。理由はそもそも渡来、技術者、職能などの部民らがそこに集められたから。これは家康以前からそうで、東京の外周部、特に関東で関八州と言われた北関東や隅田川からあっち。製糸業や衣料品繊維産業=養蚕業、家内制手工業が多い理由もこれ)


ちなみに筆者Kawakatuは「やし」は「やつし」の短縮であると考える。
身をやつすとは、身分を隠して隠棲するなどの意で、香具師の祖先がかつては貴種であったという主張をうまく表す言葉だと思うが、いかに?




●なりひらとくればかきつばた
『伊勢物語』で在原業平の和歌は主題となっていて、「かきつばた」が有名。
かきつばた きつつなれにし・・・という和歌だ。
で、テキヤ(香具師)がなぜ業平を祖としたかというと、ずいぶん昔に書いた気がする。で、今回再度検索してみたら、香具師・かきつばた 業平」でそのことを書いていたのはなんと筆者だけだったから「あれ?違うのか」とあせってしまった。
木地師とぬり部 その4 職能技術者と紀氏とスパイ活動
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53480864.html


もうずいぶん前のことだが、このブログに香具師の子孫の方がコメントくださり、業平と自称すると聞いたことがある。


「香具師は、行者風の凝った衣装をまとい、綱渡りなどの大道芸で客寄せをした後、霊山・筑波山(伊吹山とも)でしか捕獲できない、とする「四六のガマ」と呼ばれる霊力を持ったガマガエルから油をとる方法を語る。四六のガマは己の容貌を今業平(在原業平のような美形)だと信じているが、周囲に鏡を張った箱に入れれば自らの醜悪さに驚き、脂汗を流すという。この汗を集め、一定期日のあいだ煮つめてできたものが「ガマの油」である、という。」Wikiがまの油


香具師には露天商だけでなく大道芸人や厄払い、歌舞音曲師などさまざまの職業があり、そのはじまりは古代からの職能民、漂泊者、犬神人(いぬじにん、じにんとも)、芸能民らと同じく差別された歴史上の敗者や外国からの難民により始められ、まず神社仏閣の境内す集散した経緯がある。寺男とか武家の中間(ちゅうげん、奴さんとも)などもそこから派生することが多かった。その中に芸人、踊り子、歌舞音曲、祭りのみやげもの屋、的屋、がまの油売りなど雑多な職能者が出る。それが芸を極めてやがて能・狂言・歌舞伎などが登場した。


漂泊者の例に漏れず彼らにも親王などの貴種流離譚がある。香具師の業平祖人伝承もそういう類であろう。がまの油売りの口上で本来醜いガマガエルを逆説的に「今業平」と表現し、美男・女ったらしだからとしている。カエルは多産だから縄文の古代からすべからく生命の象徴で、勢力が強いとされた。つまり関西弁で言えば「すけこまし」とか「ドンファン」みたいなね。女たらし=油をたらしてがんばる奴。働き者、多産、で、生命をたくさん生み出せる聖なる大地母とか父だ。うやまわれることの反面には必ずどこかにアイロニーや卑屈なブラックジョークがつきまとう。聖人・君主も常にそうだ。それが人間であり、選択肢がある自由ということでもあるが。なかなか人の世はかまびすしい。自由は平等を奪うものでもある。困ったこっちゃ。

彼ら漂泊者の多くは、小集団の中での婚姻をせざるをえなかったから、実は彼ら自身の多くには美男美女が多い。筆者が京都南部ですごした経験でも、いわゆる「ぶらく」にはすごい美女がいたものである。美男美女には、中東に多い血が多く混じって生まれるハイブリッド美男美女と、まったく正反対に血が混じらないから生まれる美男美女があるらしい。(もちろん逆に記紀のヒルコのごとき醜い者も出るし、異常出産、夭折幼児、精神薄弱、奇形なども当然多くなる。いずれも近親結婚がもたらす結果として同じである)

詳しいことは遺伝子学者の将来の研究成果を待つしかないが、地元の教師などに酒席で聞くと、「すこぶるどころじゃない美しい娘なんだが、まったく残念なことに、しゃべると「白痴美人」だった」など聞いたことがある。可愛そうだが、血が混じらないとどうしてもそういう突然変異?が起こってしまうらしい。はっとするほどの美女だがおばかちゃん。これほど残念で哀れを誘うものはない。まさにこれこそが「もののわれ」の大本かと思ってしまう。もっとも反対に天才も生まれるからまことに遺伝子とはである。


ともあれ、そういう美男美女たちの中から観阿弥・世阿弥とか市川歌右衛門・団十郎とか、出雲の阿国とか、とびきりの人気者が出たわけである。

(だいたい記紀の、ヤマトタケルの征服したところなんぞは、筋金入りの敗者がいるわけであろう。あと木地師に関連するが竹細工なども・・・大分県別府市の竹細工師は多くが鹿児島県出自、広島県竹原などもそうだろう。隼人が竹を移植して広がる。横穴古墳、大住などの地名などなど考古学・民俗学的に探せば見えてくる。近くに渡来居住地があればまずそうである、いや、と思う。決め付けは差別、流言飛語、風評を生みかねない。そういう気がするだけ)

この件については渡来人秦河勝を祖とした杉の子服部集団という部民部落が世阿弥たちの祖先伝承や、松尾芭蕉スパイ説とか、伊賀忍者秦氏説とかを生むことになったわけであろうが、もっと言うならば、秦氏が大量に入った京都市や豊前市なんぞは、確かに芸能や芸術の盛んな発祥の土地といえるわけで、舞妓はんも技芸の衆も、天皇家の雅楽集団も、まあ、美形が多い、美男美人の「産地」であることと矛盾しないことになろう。豊前は部民が入ったから今でも小倉から南は重工業、家内制手工業、セメント・金属精錬業などが多い。貴種が入った京都ははんなりで、技術者が入った豊前・小倉はぎらぎらした町になったのだろう。やんちゃが多いところはだいたいそうである。

もっともその秦の民とはいっても、職能の人々はせいぜいが部民クラスであるから、半島や大陸でどの民族にいたかも、祖先が果たして中国やらモンゴルやら、扶余やらスキタイやらアフガンやらもわからない人々なので、それら秦部や秦首、秦人らもひっくるめて一様に「秦氏が」と言ってしまうと葛野や松尾の貴種たちには墓場の下で怒ることになっているかも知れない。

秦氏が日本にやってくるときには、100いくつもの部がついてきたと書かれてあるのだから、いったい彼らは秦=多いことを名前にしただけの秦氏ヤドリギ集団だったであろう。そう考えたら、「秦氏がああだこうだ」などという猫も杓子も十把ひとからげの書き方がおかしいことはすぐ気がつくはずである。だから「とんでも本」だと言われるわけだ。Kawakatuは違いますぞ。ちゃんと分けてます。


(筆者は以前、アフリカ人以外の東西人類の分岐点であるアフガン王国に新羅に多く出る歩揺(ほよう)金冠が出ることを書いた。それは間違いなく新羅から嫁いできた妃の持ってきたひきでものだろう王冠であるが、そもそも新羅国人の多くがアフガニスタン由来の騎馬遊牧民を遠い祖先に持つ子孫であった可能性は非常に高い。高句麗もそうだろうが、百済南部から海岸部は民族的に違い、筆者は倭人と同じ倭種民族であると感じている。つまり新羅・高句麗人が扶余などの騎馬遊牧民で、百済~海岸・島嶼部人は倭人であると考える。)

秦の「氏」たちは新羅南部、金冠伽耶などを「経て」やってきたが、そのまた大元はどこにあったかなどは一切不明である。伝承では秦の始皇帝の子孫ではあっても、伝承でしかない。そういうのもいわゆる貴種流離伝説の一種でしかない。(もちろん始皇帝陵が発掘させて遺骨のDNAに大月氏国など遊牧民の遺伝子が発見されてもおかしくはないわけだが・・・)

むしろどこの馬の骨かわからないからこそ貴種に源を求めるのは日本の武士団もそうだった。家康にせよ秀吉にせよ、いやさ織田信長でさえも「阿弥 あみ」(念部や祝詞と唱えて放浪する「ほかい人」=乞食坊主)を生業としていた。信長の場合、直接の出自は越前福井の神職であるが、実のところそこは白山信仰の大本山白山神社のお膝元であり、はくさん開基といえばやはり秦氏であり、神職もその人であったろう。「白山信仰」というのは表向きに修験道、裏側では民間信仰の「しらやま」があり、これが「後戸」の闇の本体を京都で作り出すのである。修験道もまた正規の仏法と古い神社神道のはざまの存在で、まさに中間の人々であり、室町からの武家台頭から戦国のあいだに、負けたり、食えなくなって村々から離散した逃亡者が漂泊者となり、その中に江戸期の「厄払い」のような阿弥の変形のような「こじき坊主」があるわけだ。

そもそも古代から貴族でも武家でも、かと言って百姓(ひゃくせい)でもなく、租庸調をまぬかれる特殊でどっちつかずの遊民である。こうもりのような存在だから「ちゅうげん」とか「いぬじにん」なのである。神人にせよ寺男にせよ中間にせよ、彼らは政治が為政者自身の気高いこと、裕福さのステータスとして、「保護するべき弱者」だったのである。それは現代の政府が社会福祉としての生活保護とはかなり違う風習である。生活保護は日本が大戦で敗戦したあと、多くの難民、孤児があったことを契機とした、国の復興の早めるための保護政策として始まる。それは災害対策と同源のところにあるのだ。簡単に言えば現代の福祉政策では、税金の口を早く戻すためにあるのであり、古代・中世・近世・明治のステータスとしてだけの見栄はり政策とは一線を画すと考えられる。言い換えると「庇護」と「差別」は、だからこそ同居したのである。

そこを取り違える人はいまだに多い。学校でちゃんと同和問題の肝を教えないから差別もなくならないのだ。生活保護も医療保護も、差別するのではなく、コミューンが彼らを支援して仲間に復帰させるためのものだと知らないものが多すぎる。








さて、難しい話はここまで。


テキヤ口上
結構毛だらけ猫灰だらけ。
たいしたもんだよ蛙のションベン
見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ。
見下げて掘らせる井戸屋の後家さん。




上がっちゃいけないお米の相場、下がっちゃ怖いよ柳のお化け。
馬には乗ってみろ人には添ってみろってね。
モノのたとえにもいうだろう。モノの始まりが一なら国の始まりは大和の国。
泥棒の先祖が石川五衛門なら人殺しの第一号が熊坂長範。



巨根(でかいの)の手本が道鏡なら覗きの元祖は出っ歯で知られた池田の亀さん出歯亀さん。
兎を呼んでも花札にならないが、兄さん寄ってらっしゃいよ、
くに八つぁんお座敷だよと来りゃァ花街のカブ。



憎まれっ子世に憚る、
日光結構東照宮、
産で死んだが三島のお仙、
お千ばかりが女じゃないよ、



四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐ちゃん立ち小便、
驚き桃の木山椒の木、
ブリキに狸に蓄音機、
弱ったことには成田山、
ほんに不動の金縛り、
捨てる神ありゃ拾わぬ神、
月にスッポン提灯じゃ釣がねえ、



買った買ったさァ買った、
カッタコト音がするのは若い夫婦のタンスの環だよ。




●寅さんの口上
角は一流デパート赤木屋、黒木屋、白木屋さんで紅白粉つけた おねえちゃんから下さい頂戴で頂きますと五千が六千、七千が八千、一万円はする品物だが今日はそれだけ下さいとは言わない!

並んだ数字がまず一つ。物の始まりが一ならば国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島、泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、助平の始まりが小平の義雄っての。

続いた数字が二だ。二冊こうやって負けちゃおう。兄さん寄ってらっしゃいは吉原のカブ仁吉が通る東海道、日光結構東照宮、憎まれ小僧が出来ないように、教育資料の一端としてお負けしましょうもう一冊。どう?

産で死んだが三島のお仙、お仙ばかりが女ごじゃないよ。京都は極楽寺坂の門前でかの有名な 小野小町が、三日三晩飲まず食わずに野たれ死んだのが三十三。とかく三という数字はあやが悪い。
三三六歩(さんさんろっぽ)で引け目が無いという。ねっ、どう?

負かった数字が四つ。ほら四冊目。四谷赤坂麹町チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちションベン。白く咲いたか百合の花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い。
一度変われば二度変わる三度変われば四度変わる、淀の川瀬の水車(みずぐるま)、誰を待つやらくるくると。

ゴホンゴホンと波さんが、磯の浜辺でねぇあなた、あたしゃあなたの妻じゃもの、妻は妻でも『阪妻(ばんつま)よ』ときやがった。

続いた数字が六つ。六だっ! 昔、武士の位を禄(ろく)という後藤又兵衛が槍一本で六万石。ロクでもない餓鬼が出来ちゃあいけないと 言うんで教育資料の一端としてお負けしましょうこの本。どう!

七冊目。七つ長野の善光寺八つ谷中(やなか)の奥寺で、竹の柱に茅(かや)の屋根、手鍋下げてもわしゃいとやせぬ。信州信濃の新ソバよりも、あたしゃあなたの傍が良い。あなた百までわしゃ九十九まで、共にシラミのたかるまでって云うやつ。どう? ほらっ!

これで買い手が無かったらあたし、浅野匠頭じゃないけど腹切ったつもり。ダメか?
いくら見てたってダメ。いくら見てたって買わなきゃ。ね、そうでしょ?
いくら掘っても畑にゃハマグリ出てこないっていうじゃないの。どう?

たいしたもんだよ蛙のションベン見上げたもんだよ屋根屋のふんどしってね。はい! どうです?





●地口・啖呵売・香具師(やし=テキヤ・露天商)の口上
お安く負けちゃうよ。なぜこんなにお安い品物かと言うと、本来ならばこれ輸出する品物ですよアンタ。なんで輸出が出来ないかというと、はっきり言っちゃおう!今まで言わなかったんだ。わたくしが知っている東京は花の都、神田は六方堂という大きな本屋さんが、僅か百五十万円の税金で泣きの涙で投げ出した品物! だからこんなに安い。本来ならば文部省選定、衛生博覧会ご指定、大変な品物だこれ。これだけ安く売っちゃおう。英語の本なんか見てごらんなさいよ。英語、ずーっと書いてある。

最もわかり易いよ、この英語見てごらん。あたしだって読める。NHKにマッカーサー、メンソレタームにDDT。
こういう昔の古い英語から出てるんだから、買って頂戴よ。どう?はいっ!どうも有難うございました!



というわけでご読破いただき。はいっ!てけれっつのぱっ!!
おにいちゃん、おねえちゃん、お有難うございましたあ。