京都市には出雲郷がある。かつて愛宕(おたぎ)郡と呼ばれていた地域は今で言えば上京、左京にあたり、往古は葛野(かどの)郡だった。
東山三十六峰の東北辺、八瀬口から大原を抜けて福井へ抜ける叡山街道(国道367号)の入り口、岩倉のやや東あたりに北白川地域があり、山麓に縄文遺跡が点在する。近畿にも縄文人がいたという遺跡である。


e67fea24.jpg


その後縄文人は気候変動によって四散、代わって弥生遺跡が登場した。そして葛野や深草に秦氏の記録が登場する。京都の古代はそういう流れで住む人の変遷が起きている。下賀茂神社には出雲井於(いのへ)の神が祭られる。古くからここは出雲に関係した縄文先住者がいた土地だろう。それをあとから来た下賀茂氏族が地主神として祭ったのではないか?

「いのへ」とは「井の辺」つまり川を指す。鴨川と桂川が合流する下賀茂の神にはふさわしく、近くを出雲街道が通っていた。別名を比良木神社(ひらきじんじゃ)というからこれは土地を開闢した神名である。「開く」は秦氏では「裂く」になり、「さけのきみ」とはつまり葛野開闢神という構図になる。これが賀茂氏ならば「鴨建角身 たけつぬみ」で、きわめて越前の都怒賀阿羅斯等に似た名前になっている。この神と葛城・出雲の阿治須岐詫彦根とはおそらく氏族合体した同一神に違いない。すると大和の葛城山中にある高鴨神社の神が阿治須岐詫彦根であり、下賀茂神社本殿前に一言主社がある理由もよくわかる。出雲大国主の兄弟であるとされる阿治須岐詫彦根(あじすきたかひこね)は民俗誌ではあらゆる技術者の神、葛城の神である。そこから生まれ出た修験道の祖が葛城一言主を奉じた役行者であり、その別名が役の小角(えんのおづぬ)であることは、都怒賀阿羅斯等とも建角身ともあきらかにリンクしていよう。この「角」は今は「つの」であるが、越前敦賀の「つるが」の語源であり、角がある人とは新羅の「ありしかんち」つまり王族の官僚の役名でもある。牛のような角がある冠帽をかぶっていた。牛でつながるのがアメノヒボコの黄牛伝承だが、この牛は「あめうし」で、雨乞い儀式をつかさどったことを示す。ここで殺牛神事が行われていたのであるから、秦氏が首のない牛の祭りを執り行っていたこととつながる。この祭りでマタラ神が乗るのは首がない牛=実際には尻を向いて乗ることである。佐伯有清が書いた殺牛殺神神事とはつまり生贄儀式で、牛の首を落として滝に流していたのである。

ちなみにひらきは大学の友人に平木君がいたから、京都にはけっこうある氏名のようだ。「ひらき」から「ひいらぎ」がなまってご神木になっており、本宮ミアレ祭りが執り行われるので、ここも、やはりみあれ祭りを沖ノ島で行う宗像氏と関係がありそうだ。しかもここが鴨御祖神社の移転先だと言うから、鴨一族もまた安曇や宗像の海人族と同族なのだろう。賀茂氏は水を守るシャーマンだから鳥をステータスとしており、鴨とは羽振り儀式をする古墳氏族だった名残だろう。カラス神事のカラスも再生の象徴。葵祭りは有名だが、葵(徳川家)以前は藤(藤原氏)祭り。時の実力者との関係から変わったのかも知れない。










42118e1b.gif





33521c8f.gif


出雲を名乗る氏族は飛鳥・奈良時代にもあって、おそらく先住縄文の血を引くのではないかと思われる。日本海は出雲も丹後も若狭も越前・越後も、おそらく大陸来訪者と東北縄文人が日本で最初に血を通わせた地域だろう。しかし秦氏のひとつである秦下氏の祭ったであろう松尾(まつのお)大社に祭られる祭神は、なぜか胸方の中部の神だと書かれていて、それは宗像三女神のうちの市杵島比売のことである。そして松尾大社のお隣は聖徳太子を祭った月読神社になっており、ここらは古くは壱岐の人々が入った土地だったらしい。


クリックすると新しいウィンドウで開きます

京都の月読神社はほかに南部の京田辺市の大住にもあって、こちらは大住隼人が深く関わるのだろう。そもそも月読(つくよみ)神は王家の宰相を意味した神格の神である。王が太陽なら、摂政は月。つまりその意味は五三の桐家紋と同じだということになる。最古のやしろは壱岐月読神社だと考えられ、そもそも太陽と月は壱岐海人族の海上交通の守護神だったのだろう。聖徳太子の記録上の立場が女帝推古の摂政だったわけだからまさにそれは月読の立場である。記紀でこの神が目立たないのは、藤原不比等が左大臣にはならなかったこととリンクしているし、天智天皇がなかなか天皇にならないことともリンクする。天智は聖徳太子のモデルでもあろうし、不比等は鎌足のモデルだろう。表には出ない陰の存在だが、言い換えると影のフィクサーでもあるのだ。秦氏もやはりそうである。

河勝が叱った大生部多は、記録には「都の人」だったとあるから、葛野近くにいたと思われ、駿河や常陸とは大生部が多かったから出てくる地名だろう。兵庫県の日本海側、出石へゆき、出石神社へゆくと大生部の石碑がある。出石は渡来人だったアメノヒボコを祭る土地で、多氏とヒボコにはなんらかの主従関係でもあったのかも知れない。「おおうべ」とは多くを生み出す部民という名前になるが、部であり氏族とは言いがたい。多くを生み出すとは技術者だったということだろう。ならば土師氏や多氏などと同じブルーカラー氏族が王家の部民として囲われたのかも知れぬ。いずれも身分は高くはなれないはずの人々であるが、土師氏からは菅原道真が出た。高野新笠も出た。彼女の母方は百済王家親族である。それだけ技術者でも出世する道があったということになる。ならば天武に妃を出した海人族たちも同じである。




秦氏というのは「多くの幡」「多くの氏族」が時代を追って合体する集合体で、すべてが渡来、すべてが豪族だったわけではない。そもそも「はた」は「いやはた」で多くのという意味なので、多氏の「おお」と意味は同じ大集団である。それだけ多くの氏族や部と、高きも低きも、婚姻同族となっていく。まずは葛野では壱岐氏や宗像の安曇とも同族になっていただろう。鴨一族との婚姻は記録に残され、下賀茂と上賀茂の性格の違いはそこに原因がある。当然、縄文が残存していればそれとも合体したはずである。なんとなれば秦氏は貴族でも武家でもなく商人、殖産氏族だから、いらぬ喧嘩をする性格の氏族ではない。利益があるなら誰とでも融合しただろう。

秦氏の中に、スサノヲを祖人にしたり、本来賀茂氏の祭神である賀茂建角身を祭神とするなどの複雑さがあり、研究する人を惑わすのはそうした理由であろう。身分も上下にかなり広く、氏、人、部があったことがわかっているし、秦上・中・下が住み分けたのも間違いない。時代によってではあるが深草秦氏と葛野秦氏、松尾秦氏らが、もともとすべて葛野の河勝一族の関係者かどうか不明であり、祖人の名前である秦酒公(さけのきみ)にしても、時代によって葛野だったり松尾から受け継ぐものが出ている。それらによって葛野秦氏と松尾秦氏が同じ氏族だったかも実はよくわからないのである。深草秦氏の祖となった「おおつち」の名は「秦氏本系帳」には一切書かれていない。

だから「はた」とは単に海を渡り渡来した多くの氏族の総称的な使われ方をしただろう。波多という表記の氏族も、おそらく合流の結果同族になったかも知れず、近江の「えち」秦氏などは、のちに河野水軍、越智水軍を生み出す四国海人族との合体が愛知あたりでおきた結果だろう。そういう合体合流は、最初に九州に渡来した秦氏の間にもたくさんあり、多氏と合流すればその伝承を、京都出雲郷では土師氏らとはまたその伝承や祖人が取り込まれる。それが「ゆうずう」ということに相違ない。「このゆうづう」とか「ゆずき・ゆんず」とかいう広隆寺そばでの伝承にしても、最初から彼らの神だったのではなく、賀茂氏や壱岐氏や出雲氏らとの合体の結果出てきた名前であろう。

土師氏を父に持つ桓武天皇の妻だった高野新笠の墓が出雲郷おたぎ郡にあるように、渡来氏族の多くが、墓所を出自のえんの深い土地に作られたようである。百済王氏族は交野に墓所を持つが、そこが最初に入ることを許された場所だったからである。百済王家はシンボルを松ノ木だとするが、伊賀の秦氏は杉の子服部を名乗り、しかし姓名に松尾を使うものも多い。松は何を指すかは知らないが、筆者は三角縁神獣鏡にある針葉樹に似た黄幢・幡(はた)との類似性が関与するかと思っている。

いわゆる笠松模様と呼ばれるこのデザインが、名前のとおりに松ノ木を表すとは思っていない。それは卑弥呼が魏から激とともにもらった黄幢(こうどう)だろうと考える。この黄幢はのちの時代では黄幡(おうばん)に該当し、戦争用のシンボルマークであり、「はた」である。

旗とはその風になびく音をそのまま名詞にした擬音語であるが、そのはたはたという音は、古代にはシャーマンの羽振りの、人をふるいたたせ、心を動かす音でもあった。だから「はた」を単に多い氏族だけとは言えまい。その姿を世界中で鳥に擬似している。そこに死んでも再び蘇る呪があるからカラスが太陽の使者で、命を運び再生させるものと考えられた。

秦氏の来訪をかつては記録にある四世紀あたりかと考えた時期もあったが、深草遺跡や宇治市街遺跡や鳥羽の羽束師(はつかし)、久我などの弥生遺跡を思うと、三世紀にはもう京都南部にオンドルの出る遺跡があるので、早くから来ていたと見たほうがいい。そうでないと、北白川の縄文人との合体に間に合わない。

※はつかし地名は、ここが河川の合流地と考えれば、やはり下賀茂と同じくシャーマン地名だろう。つか=塚古墳ではたはたと袖を振る師。われわれは「はづかし」と読んでいた。「はずかしい」とは関係あるまい。幕末にはくしくも鳥羽伏見の戦いがあって、たくさんの武士が死んでいる。いくさがあるのはそこが重要な分岐点だったからで、京都に南部から淀川で入るには、鳥羽羽塚師は死と再生のにおいがする地名である。そういう理由もあってか、神功皇后新羅遠征ゆかりの城南宮がこの地に置かれる。いいも悪いも、ここは京都の入り口でもある。



6baddc4a.jpg


安曇族との合体は、おそらく半島から渡来するときにできあがったと思う。それは壱岐や宗像との合体を生み出すことになる。安曇は出雲から日本海沿岸の越前富山あたりまで往来する海人族で、内陸部の信州にも安曇臣の名前が残される。彼らが諏訪に祭るのがおそらく建南方であろう。これは古志の沼川姫=姫川を母とする出雲の一族のひとつと記紀はしてある。彼らが若狭あたりから旧越前街道で琵琶湖や京都に入ってもおかしくはない。今でも、若狭湾から京都市に入るには由良川沿いの国道をゆくが、江戸時代にできあがった周山街道のほかに古くから日本海へ出る道(北陸街道七里半越え道など)を作っていたに違いない。それが行き着いた場所がつまり愛宕郡・・・葛野なのである。


58590d4a.gif


ということは秦氏が、どういう経路で京都に入ったかを考えると、ひとつだけでなかっただろうことに考えが及ぶ。ならば秦氏は一種類では最初からなかったのだ。

北白川へ出るためには北部の扇状地から周山へ入り込む道があったのだろうし、さきほどの由良街道の道もあっただろう。さらにぐるりと太平洋から尾張へ入って、伊吹山を越えれば近江である。記録では最初、葛城卒彦は彼らを大和の御所市あたりに留め置いているが、ここにはすでに鴨一族がいた記録があり、おそらくそこで合体したのだろう。当然、在地豪族だった葛城一族との合体も起きたはずである。



秦氏が嫁を出したり、めっとった氏族は非常に多い。平安京建設では時の権力者だった藤原氏ともそうなっている。土師氏、壱岐氏、出雲臣、賀茂氏、さらに縄文系などのあらゆる氏族と合体しただろう。そして飛鳥時代の蘇我氏もそれはあったはずだ。その配下にあった新羅系漢氏とも、あるいは阿波・紀州の忌部(斎部)氏ともそうだったろう。彼らは同じシャーマン氏族なので当然である。ならば物部や中臣も例外ではないことになる。

記録の中の氏族の謎は、秦氏のこうした多大な合流が解いてくれるのではないか。