■人種差別はいまだに頑としてなくならない

「今年(2014年)5月、米国で「異なる人種は生物学上も異なるもので、人種の違いは異なる進化を生み、人種が異なると経済的・社会的な振る舞いも異なる」という主張をする書籍「A Troublesome Inheritance(やっかいな遺産)」が出版された。この書籍内では著名な遺伝学者らの研究が引用されており、そのうえでたとえば「アフリカ系アメリカ人は白人よりも暴力的である」「中国人はビジネスに長けている」などといった主張がされているのだが、これに対し集団遺伝学者らが批判声明を出すという事態になっている(ScienceSlashdot)。」



科学者でさえ、いまだにこうした差別論を振りかざしている。
そもそも人類学では「人種」という言葉ですら差別だとされる世の中において、たとえばKKKのごとき人種差別グループは、いまだにトランプのような詭弁の論客を社会に送り出そうとしている。その有様は特に白人(あえてそう言う)社会、キリスト教社会、おしなべて西欧コーカソイド(あえて書く)の中に蔓延しており、これをアパルトヘイト、白豪主義、キリスト教至上主義などと眉をひそめて言い表す。忌むべき中世悪癖風習の残存と言わねばなるまい。

そもそもキリスト教そのものが、元はユダヤのものである。ユダヤ人であるキリストの、ユダヤ人であるその使徒たちの、旧来ユダヤ教の古代的なもののゆがみを修正しようと生まれてきたものを、ローマ人が国家に都合よく解釈、改変しながら利用したのがキリスト教である。その借り物の宗教が、本末転倒のユダヤ差別や北欧ゲルマン民族やケルト民族を執拗に差別し、やがては中東、アジア、アフリカ民族までもが「野蛮な異教徒」として西欧社会の奇妙な活力を作り出してきた。つまり彼らは最初から、歪な征服思想の申し子から始まったと言っても過言ではなかった。

遺伝子学の分析結果は、世界のすべての民族に、人種による大差がないことを語っている。つまり人種差別の主たる要因は、すべてのサル属ヒト科に内在する暴力性、独善性による主観的な選民思想の賜物でしかないのだ。これがすべての争いの火種である。反面で進化の活力の源でもある。




1.現存する全ての人々は、ホモ・サピエンスというひとつの生物学的な種に属するものである。しかも、ひとつの共通の祖先から由来したものであるということは、あらゆる科学者の等しく認めるところである。議論の余地は、いくつかのグループがこの共通な祖先から分かれた時期と理由について残されているにすぎない。

 人類学者の考えている人種の概念は、人間の諸グループをならべて進化過程の研究に便宜を計るための動物学的な枠を設定するたんなる分野の方途にすぎない。この見地からすれば、「人種」ということばは、本来遺伝的な身体的特徴によってほかのグループと区別できるような人類の集団に対してだけ使われなければならない。多くの人は遺伝的な身体的特徴によってほかのグループと区別できるが、人類の歴史は複雑なためにそのように分類できない人もまた多いのである。

2.ヒトの集団のあいだの身体的な差異はあるものは遺伝的構成の差に、あるものは彼らの育った環境の差に起因する。たいていの場合はその両方の影響が同時に関与している。遺伝学の教えるところによれば、ひとつの生物学的な種のなかの集団どうしの遺伝的な差は、二つのプロセスの作用によって生じたものである。そのひとつは、自然淘汰と遺伝子の突然変異によって集団の遺伝的構成が絶えず少しずつ変化する過程である。また集団の遺伝的構成は遺伝子頻度の偶然的な変化とか、結婚の習慣によっても影響を受ける。もうひとつのプロセスは、こうして生じた集団の分化が、絶えざる交配によって打ち破られることである。異人種間の混交によって生まれた新しい集団は、隔離されればふたたび同じ第一のプロセスの作用を受けてさらに変化してゆく。現在の人種は、人類のなかで起こっているこれらのプロセスの、現在という一時期における姿であるにすぎない。ヒトの諸集団の分類に使われる遺伝的形質、その集団内変異の幅、細分の程度といったものは、当然科学的な目的が異なればまたちがってくる性質のものである。
      
3.国家、宗教、言語、文化などで決められる集団、あるいは地理的な集団は、かならずしも人種と一致しない。こういう集団の文化的な特性は人種特徴となんの関連ももっていない。アメリカ人というものはひとつの人種ではない。フランス人とかドイツ人というのも同様である。国家という枠で規定される集団はどれも人種ではない。ムスリム(イスラム教徒)とかユダヤ(教徒)というのも、ローマンカソリックやプロテスタントとまったく同じで、人種ではない。アイスランドに住む人、ブリテン島に住む人、インドに住む人というのも、英語を話す人びととか、文化的な意味でのトルコ民族や漢民族といったものも、すべて人種とは関係がない。よく世間でこれらの集団を指すのに「人種」という言葉を使っているが、これは重大な誤りといえるであろう。

4.人種の分け方は人類学者によってまちまちである。しかしたいていの人類学者は今の人類を少なくとも三つの大きな単位に分けることに賛成する。これは大人種とか小人種とかいわれるものである。こういう分類は、たったひとつの身体的特徴だけでできるものではない。たとえば皮膚の色をとっても、これだけで主人種を完全に区別することはできない。今日の知識では、主人種を区別する身体的特徴のちがいに、世間でよくいうような<優越性>とか<劣等性>というものは全然見られない。

 概して別々の主人種に属する個人は、からだの特徴からすぐ区別がつく。しかし同じ主人種内の違った人種に属する個人を見わけることはそう簡単ではない。主人種でさえお互いに移行しあっており、身体的な特徴もかなり重複している。計測できるような特徴に関していうと、ほとんどの場合、同じ人種のなかでの個人差は、同じ主人種内の人種の平均値の差より大きいものである。
     
5.人種を分類するのに精神的な特徴を含めて考える人類学者はほとんどいない。ひとつの人種のなかでの研究によれば、知能や気質を決めるのは生まれつきの能力と環境による機会との両方である。どちらがより強いかという点になると、まだ意見は一致しない。

  文字を知らない人々に知能テストをやってみると、成績は概して文明化された人々より劣っている。同じ人種で同じような高度な文明のなかに生活しているものでも、知能テストの成績にかなりの差が出てくることがわかっている。しかし二つのグループが子供のときから同じ環境で育てられた場合には、成績の差は非常に小さいことが多い。また同じ機会をあたえられれば、能力の平均も偏差も人種によってほとんど違わないという証例が得られている。

  人種によって知能に大差があり、それは遺伝的なものであると主張する心理学者がいるが、劣等なグループの方に必ず優秀なグループの平均を上回る個人がいることは彼らも認めている。いずれにしても、二つのグループを精神能力だけで分けようとしても、宗教とか皮膚とか髪の形あるいは言語などで分けるような具合に行かないことは事実である。知的・情的反応に対するある種の内在する能力が集団によって異なることは大いにあり得ることである。しかし内在能力が、ひとつのグループ内でもグループ間の場合と同程度の変異を示すことも確かである。

  心理的特徴の遺伝に関する研究には困難がつきまとう。ある種の精神異常や精神薄弱が世代から世代へと受け継がれるのをわれわれは知っているが、正常人の精神生活のなかで遺伝が果たす役割については、われわれもあまりよく知らない。正常な個人は人種の如何を問わずすべて教育される能力をもっている。したがって知的・道徳的生活はその人の受ける訓練と、その人を取り巻く自然的・社会的環境に大きく支配されている。

       ある国民が特定の心理的性質によって特徴づけられるようにみえる場合がしばしばある。皮相な見方をすれば、人種に関係があるとも考えられるかも知れない。しかし科学的にみれば、共通の心理的性質というものはむしろ共通の歴史的・社会的背景によるものである。多くの人種から成るいろいろの集団のあいだでも、気質や知能の変異は大体同程度だというのが事実である。

6.われわれが現在もっている科学的な資料によれば、諸民族の文化の差、文化の発達の差を生み出す主要な原因が遺伝的な差にあるという考え方は正当とはいえない。むしろ反対に、そのような差を説明する主な要因が各グループが経てきた文化的な経験にあることをわれわれの資料は教えている。

7.「純粋な人種」というものがこの世にあるという証拠はない。古人骨はかつての人種のことを物語ってくれる。人種の混交がかなり古くから行われていたことは証拠によって明らかである。実際、人種の形式と滅亡と吸収のプロセスのひとつは、この人種混交によって行われる。人種の混交によって、何か不利な結果証拠がみあたらない以上、異人種間の結婚を禁止すべき生物学的根拠はないわけである。

8.ここでわれわれは人種の平等という問題に対する態度を考えておかなければならない。機会の均等と法における平等は、論理的な原則であって、人類がその素質において平等であるという主張とは何ら関係ないものであるという点を強調しておきたい。

9.最後に、個人差と集団差に関して、現在の科学が確認していることを箇条書にして整理しておく。

(a)人種分類の基準として今まで人類学者が有効に利用できた特徴は、すべて身体的(解剖学的・生理学的)なものである。

(b)人類の諸集団が、知的・情的発達の内在能力において異なるということを信じさせるような基礎は、現在の科学知識にない。

(c)一人種内の個人間の生物学的差異のあるものは、人種間の同じ生物学的差異と同等またはそれ以上に大きい。

(d)大規模な社会的変化は、人種の変化とまったく無関係におこっている。歴史学と社会学の成果は、遺伝的な差が諸集団間の社会的・文化的差異の決定にほとんど意味をもたないという見解を支持している。

(e)生物学的見地から、人種の混交が有害な結果をもたらすという証拠はない。人種混交の社会的な影響は、よかれ悪しかれ、一般に社会的要因に帰せられるものである
(小松勲・山口敏 訳)(一部改訳)
 掲載:「偏見の構造 : 日本人の人種観」 我妻洋、米山俊直共著 日本放送出版協会 1967
  原題“Statement on the Nature of Race and Race Differences”  
      原文掲載:UNESCOホームページ(PDFファイル)“The Race Concept”
  上記のファイルを見るにはAdobe Readerのダウンロードが必要です。




言わなければならないことは、差別とは、むしろ差別する側の幼稚性、原始性によって生まれるのであり、差別される側はむしろまともな人類だということだ。


アメリカがその権化のような人物を、自分たちのリーダーに選ぶということは、アメリカ人全体の幼稚さ、原始人であることの証明でしかなく、決してそのようなことが起きないと信じるものである。まして、彼の金銭買収によったカラードたちの暴力行為を既成事実としようという虚偽の「やらせ」行為に参加する人々などは、下の下の存在で、「トランプのジョーカー」である。


アメリカは黒人大統領への不満から出た意識の揺り戻し時代になった。それは日本の戦後に右から左へ揺れ動いたことと似ている。「黒人の次は女か?いい加減にしろ」的な、よくも悪しくもアメリカらしい、単純で、粗野で、荒々しい論理の復活でしかない。あたかもハリウッド映画のように、彼らは単純な勧善懲悪と、どんぱちやカーチェイスを好む野蛮な人類のひとつに過ぎない。それらはその開拓時代の環境から生まれでた。環境によってそうなったに過ぎない。彼らには正しい導きが必要なのだ。

どの世界にも、性急で、ひとつの答えにすがりつきたい、子供のような差別主義者は存在する。日本にもいる。若者にも、老人にもいる。旧皇室子孫にさえいる。それらは人類の進化の邪魔をする。つまり差別している彼ら自身が自由と平等の敵なのである。彼らはみずからの排他性に酔いしれ、すべてを自分の価値観に従わせようとするあきれかえったやくざである。