●「前方後円墳国家」
これは畿内系の国家論理である。
広瀬和雄の古い理論。

前方後円墳が大きく、多いことが日本最初の国家建設と密接な関係を持っていた・・・という単純極まりない論理構造である。


●なぜそれがもう古いのか?
1 古墳の大きさや外見や数の論理だけで、中身の変遷を論じていない
近畿の古墳の埋葬物は、時代の中盤以降に横穴式石室が入る頃まで、九州の弥生時代の墳丘墓よりもまったく貧弱である。横穴式という方式は、それまでの竪穴よりも空間が格段に広く、つまり埋葬物をたくさん入れられるのと、あとから何度も石室を開けて、再度の追葬を可能にした。つまり国力が充実し、中国や朝鮮など対外国家へ船を出せるだけの国家の体裁が整ってはじめて可能な形式が横穴式石室である。しかるに長く竪穴式を続けてきた近畿(古市大古墳群でさえ竪穴)にはまだ国家というものを作れるほどの国力がないと判断するほかない。

2 巨大であればいいのなら初期の纏向古墳群からすでに巨大。しかし内容が貧弱。これは矛盾する。祭祀に使う鏡がいくら多く出ても、それは国家体制がまだ古典的な祭祀シャーマン国家状態だった証拠にしかならず。九州のように実用鉄器が出ねばだめだ。そういう状況はむしろ平和ボケ国家と言ったほうがいい。軍事力にみんなが反対していてもいいのがそういう段階である。現代と同じ。変わらなくちゃと思い始める時代が「国家」の始まりなのである。

そういう時代のの考古学発掘状況が意味するのは、その地域がやっとヘテラルキー縄文社会から突然ヒエラルキー弥生社会に急変身したくなった時代にほかならない。いまだ原始社会なのである。

その最初のきっかけは3世紀後半。卑弥呼の使者が実際に半島を見てきてからだったが、それは朝貢外交のせいでしかなく、再び国内に騒動が持ち上がってぽしゃった。そのあと再び朝貢したのは100年後の5世紀。間の4世紀は大陸が騒然としていてそれどころではない。このときには朝貢した政権がすでにかわっており、吉備の?倭五王が強力な古墳を作り始める(吉備造山・作山など)。だがまだ竪穴式のままだ。ここで再び横穴式が待望され、同時に大陸の情勢に対応できる安保体制が求められた。現代と同じで、防衛力増強のためには武力先進地である北部九州との談合内閣がひっきんのテーマとなった。それで九州を招聘して、見た目だっけは巨大なヒエラルキーが目に見える古墳が大阪に作られた。しかし埋蔵物の内容はまだ九州の鉄器などには及ばない。大阪湾からこの次期直前に出る土器は吉備系であり、それが生駒山山麓から大和へ変化しながら北上するので、この倭五王政権の主はまず吉備王だと言えるのである。吉備王と在地縄文系の葛城族の同盟が最初の大和のミニ王権であることは間違いない。葛城とはそもそも南九州と出雲と後期縄文人の合体してできたものだ。それを滅ぼし懐柔し合体する複数の渡来系があとから来るはずである。こういう大きな流れでは『日本書紀』『古事記』はそれほど嘘は書いていない。だいたい合致する。ただし氏族についていろいろ潤色している。

一口で竪穴から横穴へというが、作ろうと思ったら横穴式のノウハウが必要である。それは北部九州のほが早かった。3世紀纏向古墳群が竪穴式であるのと、土器で九州様式のものが出てこないのは矛盾がない。九州から武人がこなければ実用としての鉄器は出てくるはずがない。ということは、この時点でまだ大和はヘテ~ヒエの過渡期で、武力をあまり必要としていない。ということは直接的な大陸からの脅威が山と地域にはまだ及んでいないとなる。逼迫した軍備体制がまだ整わず、むしろ遅れていたと思われてきた東国のほうが武器が多いくらいだ。近畿は平和ボケしていてよかったのだろう。となると、倭王武の上奏文はやはり大げさな仮冒である。そもそも尋常でない巨大さの墓を作っていてもよい時代だったのが倭五王時代である。ぼけている。


中身までが九州並みになったのはようやく雄略あたりからで、九州では逆に中身が薄くなる。実力者が大和へ移住したからである。そして大陸事情が、表玄関の九州では墓に入れている場合でもなくなっていったからだ。実用品のほうが必要になるのである。


半島がゆらぎはじめる飛鳥時代には、もう古墳自体が終末期で、近畿も中身に鉄器どころではなくなってくる。つまり北部九州という遠い防壁の事情が、内陸の近畿にまで及んでくるのpだ。そして高句麗・百済が滅亡する。こうなったころ、ようやく天智や天武のような実力のある王(と描かれた)が近畿に登場するのである。つまりあきらかに考古学では、九州よりも近畿はヒエラルキーへの目覚めが遅く、そして急激なのである。短期間に国家ができあがる。だからよそから既成の力や技術を招聘せねば無利だったはずである。


こうしたことから前方後円墳は見せかけだけのペーパータイガーであることは簡単に見て取れる。その内部構造から見ても、中国と隣接してきた朝鮮諸国の墓に比べると、石積みも原始的で、切石技術もいい加減。ただ土を広く高く盛り上げるだけの版築工法でしかない。そしてその後の日本の城郭技術にしても大陸ほどの秀麗な緻密さは取り入れられていない。


国家とは見せ掛けではない。中身である。

防衛力、経済力、交渉力、政治力のすべてが備わってこそ国家である。日本はいまだにそれらが整っていない。考古学者も歴史学者も、現代をこそよく見詰めるべきだ。主観的な日本至上主義を持ったままでは、歴史学は、科学とはいつまでも認めてもらえまい。近畿の歴史学はそういうところがいつまで経っても戦前のままだ。右の亡霊のたたりにいまだに震えながら考えているのだろう。