食の隆盛はピンチにこそ生まれた。
江戸に多くの食の名店が生まれるきっかけは明暦の大火(振袖火事 ふりそで・かじ)以降である。

明暦3年1月18日1657年3月2日)から1月20日3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。


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戸火事図巻(田代幸春画、1814年)


それまでの江戸にはほとんど大衆向けの食堂つまりごはん屋、食べ物屋というものがなかった。記録でうなぎ屋や蕎麦屋や、ファーストフードの屋台寿司がどっと登場するのは明暦の大火以後である。最初に登場したのは煮売り屋で、当時はこれを奈良茶飯屋と言った。被災地復興のために集められた地方労働者に食わせる煮豆の茶漬けをささっとかっこませる店(天和〈 1681 〜 1683 年)の頃初めて浅草にできた、井原西鶴の「西鶴置土産」に登場する浅草金竜山の茶屋が「奈良茶飯」を出したのが料理店の元祖と言われる)だが、ほかに何種類かの惣菜を常備し、のちには酒も飲ませた。みな露天のようなほったて小屋から始まる。江戸城さえ延焼した大火事である。まるで戦後焼け跡のような江戸の町で、とにかく何かを食わせようという江戸っ子の、特におばちゃん、おっちゃんたちの奮闘の歴史がそこにある。

こうしたことは戦後復興期の闇屋飲食屋台の登場にそっくりである。あるいは最近では阪神淡路大震災直後の復興期にも見られる。ただし、現代の復興にはそれらはすべてがボランティアによってまかなわれるために、都市全体の経済復興と直接的につながりにくいのが違う。大火や戦後の屋台の群れは、それ自体が被災者たちの金銭、その日の糧を得るために、彼ら住人の意思によって自主的に始まったのである。(幕府の支援策でもあったが)
それは応仁の乱のときの天皇家や豊臣家による復興ともまた違うだろう。

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明暦大火から生まれた新たな食の風習が今は江戸の名物となったうなぎ、寿司、蕎麦であり、戦後にはそれがラーメン、お好み焼き、焼き蕎麦などだった。つまりいずれも本来はB級のグルメであり安価なものだったのである。食材としてはまずは小麦粉の多様、自前の海や川や土からとれるものである。そして「くだらない」と言われた江戸の産物による自主的に作り出される酒や食べ物。それまでの経済は関西を上物とした西から東への経済動向だったのが、流通がストップすることで関東独自の産物でまかなわれはじめる。味噌・醤油のような調味料も、それまでは上方の薄口だったものから、千葉の味噌や醤油、川越のさつまいも、といった関東地場の味覚にあったものが登場し始めた。今、われわれが知っている濃い口醤油とかやはり濃い味の味噌などは明暦大火を境に関東本来の味覚として登場した新製品ばかりなのだった。大火は列島の経済の動きだけでなく、関東人の往古からの味覚を復活させ、さらに町人によるバイタリティあふれた食文化を育て上げてゆく。

応仁の乱で丸焼けになった京都で、今老舗というと300~500年の歴史があるが、江戸では古くて100年である。もともと都市としての歴史は新しいが、これも大火とその後の関東大震災のせいであろう。


常に民衆はピンチに立たされてきた。そしてそのたびによみがえる。復興期こそが起業のチャンスなのである。