●前近代の歴史叙述の特質(江戸期儒学・朱子学の史観)
1治乱興亡史観=ドラマツルギー史観、ドラマチック史観、中国興亡史的史観
2鑑戒主義=歴史は繰り返すを前提に、過去の事実を反省し今後繰り返すまいと戒める主観的史観
3直書主義=ドキュメント史観、淡々粛々と史実だけを書き留める史観


1治乱興亡史観
  「一つは「治乱興亡史観」で、歴史は治まったり、乱れたりが次々と繰り返されるという考え方です。それが繰り返されるという意味では、「循環史観」といってもいいかもしれません。私たちがすでに失ってしまった歴史に対するものの見方です。歴史は繰り返すと言いますが、現代の私たちはこれを比喩でしか用いません。ところが江戸時代の儒学者にとっては、これは比喩ではありません。歴史は繰り返されます。しかも国境を超えて繰り返されます。中国の歴史書がなぜ必死で読まれるのか。私たちが読むように、他国の歴史書として読むわけではない。繰り返されるがゆえに必ず参考になるだろうということです。つまり、中国の歴史書は中国の歴史書であると同時に普遍的な歴史書でした。儒者は中国の歴史書を下敷きにしながら書くわけです。これは『日本書紀』からすでに始まっています。江戸時代までずっとそういう形で歴史書は書かれてきた。新井白石も朱子の『資治通鑑網目』などを横に置きながら『読史余論』を書いたことは先にのべました。「循環史観」は国境をも超えていく歴史の見方だということに注意しておいてほしいと思います。」
http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/doyou.htm


2鑑戒主義史観
  「二つ目は、「鑑戒主義」です。歴史を鑑=鏡とする考え方です。過去の過ちから学ぶ。過去の過ちをきっちり見て、治乱興亡の叙述を見ながら、なぜ乱れたのか、そこを反省する。同じことが繰り返されるわけですから、現在の我々以上に緊迫して書物を読んで学ぼうとする。本当の鑑=鏡なのです。歴史を一生懸命、鑑=鏡として、そこから戒めを引き出す。この考え方は、日本の有名な歴史書の中に一様に共通して出てきます。『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』などは古代・中世の有名な歴史書ですが、名前にもその考え方は出ています。まさに「古ヲ以テ鑑ト成シ、人ヲ以テ鑑ト成シ、以テ得失ヲ明カニスヘシ」(『貞観政要』)というわけです。失敗もちゃんと見ようというわけです。」


3直書主義史観
  「三つ目は「直書主義」です。朱子の言葉に「実ニ拠テ直書シテ、理自ラ現ル」(『朱子語類』巻八三)というのがあります。「事実」を「直書」すれば、余計なことを書かなくても「理」は自ら現れる。したがって、正式の歴史書の「紀」は解釈とは別に記述される。「何月何日こういうことがあった」と淡々と記していって、そこに「自ら善悪が現れる」といっているわけです。念のために申しますと、「事実」と解釈は不可分のものでありまして、現代のわれわれから見ると、かくいう儒学者・朱子学者の歴史書も解釈を離れてはありえません。「事実」を淡々と記して、そこに自ら「理」が現れるといいますが、なぜその「事実」を取り上げるのかということの中に、すでに一つの解釈が入っている。したがって、厳密には「直書主義」はかれらがいうほど解釈と無関係ではないわけであります。ただ少なくとも彼らの主観のレベルでは「直書」、記録に残っているものを淡々と断定型で記していけば、後は解釈しない。そうすれば「理は自ら現れる」。」
http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/doyou.htm

 「以上、大きくいえば、儒学系の歴史書にはこの三つの特色があろうかと思います。江戸時代は、儒学系の歴史書が盛んだったわけですが、それを通覧すると、直ちに気づかされるのが、この三つの特色であります。「治乱興亡史観・循環史観」「鑑戒主義」「直書主義」ということです。こういう歴史観は当然のことながら、近代以降、多くは見捨てられていくことになります。」
http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/doyou.htm

 
『日本書紀』では
(4皇国史観=万世一系の天皇系譜によって日本は始まるという『日本書紀』的な史観。)5中華思想史観
6道教史観
7対外的見栄っ張り(ヒエラルキー)史観
が顕著である。

カッコ付きにしたのは皇国史観という言葉の発生が明治期であるから。






『日本書紀』の史観ではこのうちの1と4・5・6史観が顕著に感じられる。
1はその後の中世軍記にも共通するドラマチック性を盛り込んで、歴史がまるで映画や小説や絵巻のように展開し、王朝の変わり目に必ず起承転結の「転」にあたる大事件、事象、乱や変を盛り込んで結果として王朝が易姓革命によって切り替わるスタイル。『三国志演義』や『日本書紀』の一部などがその代表的なもので、史書というよりも物語である。

『日本書紀』のそういう部分とは、磐井の乱(いわいのらん)や丁未の乱(ていびのらん)や乙巳の変(いっしのへん)や壬申の乱(じんしんのらん)である。場合によってはなかったことでも海外に対する対外的ヒエラルキー意識から、それがあったのだとしたい手法。あるいはあったとしてもかなりのドラマツルギーを盛り込んで史実以上の話を盛り上げる手法。中国の過去の歴史書を手本に書き上げてある部分。中国史書が面白いのはこれがあるから。

一方で、同じ時代の変換期でも継体大王の死やその二人の息子の死などは何事もなかったように妙に冷静に描き外国の見方は一書として参考程度に済ませる。ところが継体の登場シーンでは国内が反目しあい、反対勢力が邪魔をするとして話を盛り上げている。

聖徳太子については、これも中国にある「聖天子」思想を取り込み、かつ中国のやはり王にはならなかった「素王」をもモデルとして(呉哲男『古代日本文学の制度的研究』2003)描いている。皇太子のあるべき理想像として脚色してあり、そのエピソードは『日本書紀』編纂当時の皇太子だった聖武天皇のために書き上げられた(遠山美津男『日本書紀の虚構と史実』2012)ようである。
※聖天子=中国神話の堯(尭、ぎょう)や舜、あるいは周王に代表されるような聖人
※素王=王の位はないが、王の徳を備えている人。儒家では孔子、道家では老子をいう。

それゆえに『日本書紀』も『古事記』も史書の体裁を保ちつつも、その内容はむしろ文学、文芸であると考えても差し支えあるまい。2の歴史を省みて反省する史観や、3の直書主義の部分は記紀にはあまりなく、それ以後の史書に先送りされている。

『日本書紀』が「にほんしょき」と読まれているのは、だからややおかしいことで、これは「日本書」の「紀」つまり「本紀」の部分だと考えるべきだろう。中国歴史書の体裁は「本紀」・「志」・「列伝」の三部構成を基本とするので、『日本書紀』はついに志・列伝に着手されることのなかった東アジアでは異例の書となる。それはもちろん意図的なものとしての『日本書紀』の成立を想像させることになる。要するに『日本書紀』は藤原氏のための史書だったということで、その後の橘氏との政治主導権の奪い合いこそが日本の正史だとなり、つまりやはりそれがちゃんと平等な視線から書いてある『続日本紀』以降が正史だということになるのである。

このことはもちろん中世の歴史書のいくつかにもあてはまるものはある。源平盛衰記や平家物語などはあきからかにどちらかに偏るひいきがあって描かれた軍記ものの感が強く、義経についてなどは当然、潤色に溢れた物語だと言えよう。




さて、戦後、それまでの右に偏った歴史観の「振り子」が、敗戦直後大転換して、一時的に左へ振れ過ぎてしまった時代があった。その頃の史観は西欧科学と共産主義的史観に蹂躙され、一見、東大の左翼史観VS京大の皇国史観といった様相を呈することになる。現代の史観はそこから少しずつ科学的客観的直書主義の方向へ修正されいっている過渡期だろう。

共産主義的史観や客観主義に徹底するドキュメントだけでは、歴史は常に前方にのみ突き進み、繰り返すことがないので、前世紀史観にあった過去への反省とか、繰り返すから注意せよといった現代人への喚起も存在しないことになるだろう。そこには常に人間からの主観的なコメンテートによる微調整が必要になる。解釈しだいでは客観主義はあらぬ方向へ行ってしまいかねないのである。それはちょうどかつて科学が武器を作り出してしまった矛盾に似ている。


かつて政治学者・丸山真男は

「けれどもここで忘れてはならないことがある。政治学が政治の科学として、このように具体的な政治的現実によって媒介されなければならぬということは、それがなんらかの具体的な政治勢力に直接結びつき、政治的闘争の手段となることではない。…学者が現実の政治的事象や現存する諸々の政治的イデオロギーを考察の素材にする場合にも、彼を内面的に導くものはつねに真理価値でなければならぬ。…たとえ彼が相争う党派の一方に属し、その党派の担う政治理念のために日夜闘っているというような場合にあっても、一たび政治的現実の科学的な分析の立場に立つときには、彼の一切の政治的意欲、希望、好悪をば、ひたすら認識の要求に従属させねばならない…。」(『科学としての政治学』1947年)

と書いた。そのように人間は矛盾し、利器を暴力の道具とすることも辞さぬ生き物だということである。科学や数学はただひたすらに純真に「なぜ?」に対するひとつの解答を追い求め、ついに生まれ出た答えは、技術によって短期間に現実化し、それを使う主観的ぶれに溢れる凡々たる一般人や政治家や軍人らによっていともたやすく凶器とも変貌してしまう。凶器と侠気は常に正義や狂気と表裏でつきあう。歴史書製作にもそのような表裏のとらまえかたができてしまうところがある。


記紀の言う女帝時代にしても、考え方によってはそんな時代はなく、空白だったとしてしまうことも可能なのである。『古事記』は推古女帝の登場で幕を閉じるが、『日本書紀』はその推古を前例としてその後の皇極や称徳の即位、持統以降の10代を正当化したと考えてもおかしくないわけである。こうなるということは記紀は正しく歴史を描いた書とは言えなくなるわけである。

女帝の許容は『日本書紀』編纂時が最初だったと考えられるのは、推古の前例があったのなら、なにも『日本書紀』編纂時にそれを正当化する必要はないのに、あえて女帝持統を擁立する正当性を『日本書紀』が書こうとしているところにあるのである。例えば女帝の前例としての魏志の卑弥呼のエピソードの一書挿入や、神功皇后の創作はなんのために書き加えたか?と考えれば一目瞭然だろう。国家神アマテラスが突然、ほかの創造神五柱を隠れさせてまで登場するかもまさに女帝のための国家神変形ではあるまいか?女帝が押し通せた最大の理由は、持統の即位とほぼ同時期に中国でも則天武后が即位してしまったからである。いや、のしや武后の即位を知ってからだからこそ持統以後も書くことが可能になったかも知れない。

また、これも不思議なことだと諸氏が感じいているだろう、日本を最初に開発した天皇の二重性、三重性がある。神武・崇神の二人の「はつくにしらす」天皇がいて、さらに天智天皇には「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)という天命によって国を開いたという名前。さらに飛鳥王朝の始祖としての欽明には天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という天地開闢の諱号が付与される。ところが一方で、同じく応神の王朝を引き継いで新勢力を築き上げ、今の天皇家の大元血脈である継体天皇では男大迹王(をほどのおおきみ)、彦太命といったなんでもない本名だけの諱号で済ませている。まことに奇妙な話ではないか?兄天智が国を開いた聖人・始祖王と名前をつけられるのに、弟の天武は壬申の乱という大クーデターで天智の子どもを滅ぼした革命王なのに、諱号こそ天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という道教の聖人であるが幼名は「おおあま」と、当時の政界ではがっくり力を落としていた海人族の名前。天智には葛城王という立派なかつての外戚王家の名前・・・。あきらかに『日本書紀』は天智を事実上の正統な王家の始祖であり、数えて数回目の交代した王家なのだぞとしてある。王朝交代を認めながら、彼らは全員もとを糾せば九州の神武の子孫・・・???どういうことだ?!

これはまさしく1の治乱興亡思想があるからこそ創作できたことなのだ。
日本にも中国のような何度もの革命があって、天皇は入れ替わることがあったのだと言いたい書き方なのだ。ところがところが、返す刀で天皇はずっと万世一系で、神武も崇神も応神も継体も欽明も天智も天武もみな実は親戚で、親子で、兄弟で・・・と、まったく矛盾した書き方。すべての内乱や革命や王の交代劇はすべてたったひとつの王家内部でのごたごたですからと言い訳するのである。それでは天命によって天子が変わったことにはならないのではないか?まあまあ、それが日本よ・・・なんじゃこりゃ?である。おかしいだろうと思わないもののほうがおかしい世界が続いてきたのに、誰もそこに気づかぬままとうとう皇国史観によって戦争し敗北までしてしまう。

なぜ初代天皇は九州から来る?
これは認めているわけである。何を?九州つまり筑紫が王の本家だったことを。天孫が降りてきたのはそこが祖先が最初にいたところだったということの公認である。そして天孫が来た大元は天である。神の子孫だと。神の世界からやってきて、その子孫が代々国王になるが、同時に国王もただの政治王なのではなく神の血を引く神なのだと。これはあきらかに天命を受けて王となるのとは性質が違う。中国でも確かに周王の血とか、始皇帝のとか、漢の血脈とかは言うけれど、それらがすべてひとりの始祖王から引き継がれた血脈だったなどとは書いていない。現実的にそんなことはありえないという客観的史観がそこにはある。

神倭伊波礼琵古命が九州からはよいとしても、なぜ南九州からなのか?これはもう史書編纂時に金が動いたんじゃないのか?とさえ疑うほどの驚天動地である。前の王家がそうだったからだとしか思えまい。葛城氏や物部氏ら有力外戚が南九州から来たから、それをわれらがやっつけて王朝交代したから、祟られたら困るから持ち上げておこう・・・そういうことか?そういうことでしょう。藤原氏の本体である中臣氏そのものも九州から来ていたということかも知れぬ。いや、藤原氏が果たして本当に中臣氏から出たかどうかも実は疑うほうがいいのかも知れない。

応神もなぜ九州の宇佐に祭るのか?そこから来た、あるいはそこを経由した、あるいはそこを基点にして吉備あたりで王だったから・・・であろう?

なぜ出雲を最初にやっつけて、さらに黄泉の国にしてしまうのか?中華思想だからである。漢民族とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い禽獣であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す。また夏、華夏、中国とも同義である。南蛮(なんばん)・東夷(とおい・とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)が周囲に蟠踞した中国の思想からである。しかし日本列島は細長く、周囲はみな海で、蛮人たるものがいない。そこで大和を中心として西を出雲、東を東海・関東、北は蝦夷の東北、南は熊襲・隼人のいる南九州とした。西は死者のいるところとして黄泉とした。さらに自分たちのいる中心地大和を畿内として、天子のいる都であると決めたのである。中国ではこれを畿甸(きでん)と言っていたからである。すべてはあきらかに四角四面と中華思想そのものである。実際には出雲は半島への中継地で重要だったのである。宍道湖という良港、斐伊川という鉱物資源、なによりも同じように往古から、蝦夷や九州がそこを重要な中継地としていたから是非とも欲しかったのだ。大和には海がない。ロシアが不凍港を欲して日露戦争になったのと同じことである。しかし大和は力ずくでそこをぶんどるほどの武力はなかった。だから福井から継体先祖を引き込むのである。これが息長氏。つまり継体とは船舶商業のもと締めだっ氏族から生まれた人でそれまでの大王とは無関係。出雲が欲しい、縄文から続く蝦夷と九州のつながりを断ち切りたいから継体懐柔である・・・。