全国で古墳が終焉する時期は、全国で群集墳が終焉した時である。
群集墳の終了によって古墳の時代は完全に終わる。
これは森浩一の考え方である。


「現時点でいえば、群集墳とはあらかじめ選定され、限定された土地(墓地)の内部へ、おもに小古墳が次々に造営され、結果的に今日見るような古墳群となったものおをいうのである。典型的な群集墳型墓地は、たんに面積だけでなく、その位置の選定も中央政府によって規制されていたのではないかと推定されるが、そのような群集墳が大勢としてその形成を終わったとき、つまり群集墳型墓地の内部で新たな古墳を築くという造墓活動が終わった時点を古墳時代後期の終焉と考えている。」
1975年『岩波講座』日本歴史2古代史 「終末期古墳」

群集墳はほぼ首長墓の被葬者の同族、家族、家臣団の墓の集合体である。100基以上集合した土地もあれば、10基ほどの小規模な土地もある。それがほぼその氏族の規模であり、400年続いたものもあれば、100年で終わったものもある。しかし全体としては延々と古墳の時代間に各地で作られ続けた。首長の墓も最後のほうは規模を小さくしていくから全体が終わったときに終末期が終わったとなる。最後の群集墳が終わったときが「古墳時代」全体の終焉である。ただし、その終焉時期には地方でタイムラグがある。特に東国のように中央から離れて、住む人々の構成も西日本とは異なった地域では、8世紀まで大古墳は存続した。つまり一般に「古墳時代が終わった」というのは主として西日本のそれも近畿を目安にして7世紀~8世紀とされている。8世紀とは天武・持統合葬墓あたりで終わりということだろう。

近畿ではほかに先んじて早めに終焉期を迎えた古墳群がある。いわゆる「千塚」と名前のつく和歌山市の岩橋(いわせ)千塚と橿原市の新沢(にいざわ)千塚で、ともに5世紀から造営が始められた古い氏族の群集墳である。簡潔に言ってしまえば前者は紀氏が候補で、後者は大伴氏(白石太一郎説)あるいは地名が越智(おち)なので四国海人族有力者のものだ。

始まりが早いから、終焉もほかより一歩早かったわけだが、文献と兼ね合わせて考えればだいたい氏族は見えてくるかも知れない。

いずれも史上半世紀ほど早い時期に始まり、終わる。5中~6末のだいたい150年間だから、『日本書紀』が正しければ、雄略~継体・欽明時期に有力だった氏族ということになる。紀氏と大伴氏なら記述にはみあうことになるが定かでない。しかし岩橋の紀氏はまず間違い有るまい。


同じくらい早い時期に始まったのに、終末期まで繁栄した古墳群もある。大阪府柏原市平尾山千塚や兵庫県宝塚市長尾山古墳群の雲雀山東尾根B支群である。

奈良県で確認できている全古墳数は約5000基で、そのうち4000基が古墳時代後期、約1000基が前期・中期、終末期古墳はわずか100基しかない。つまり中央では、薄葬礼に素直に準じたものが非常に多いわけで、地方はこれの反対になる傾向にある。総じて終焉は西が早く、東は遅い。情報スピードの速度の落差と、朝廷の目の届き方の差異が見えてくる結果だろう。



「日本において死者のための壮大な墓、つまり古墳を築く風習が特に盛んであったのは、西暦四世紀から七世紀にかけてであり(1975年当時の意見)、最近まで遺存したことの証明できる古墳と現存する古墳を加えた数は10万(基)前後と推定される。さらに完全に消滅してしまって痕跡をとどめない古墳の存在を考慮すると、実際には莫大な数の(おそらく100万基ほどか?横穴墓まで入れたら想像を絶する数だろう)の古墳が築かれていたことになる。これらの古墳は約400年間、しかもその大半が最後の100年間に集中して築かれている」同書


少なく見積もって全部で50万基の大小古墳があるとして、400年間なら、年間平均1250人以上の力のある族長とその配下の有力者が死んでいることになる。1250人の「古墳を持てた人々」がいたことになる。もちろんあとへ行くにしたがってそれらは増えたので、当初はさほどの数ではないが。

一年に1250の長と副将とその家族にあたる人が全国で死んでいたとすれば、今の県で考えれば、各県で26人以上が死んだことになる。北海道や東北や沖縄をはずせば、30数名である。(魏志の110カ国で割れば、平均1クニ1人となるか。)

その中で首長と呼べた人はだいたい二世代2人ほどだろう。100年三世代とすれば、三世代目はまだ若いので2人である。もちろんこれは単純計算でしかない。




さて、群集墳が少なくとも6世紀以後には中央の指定によって各氏族に割り当てられていたのならば、地方で大古墳を造営することはなかなか大変であったことだろう。東国はさておき、海外に近い九州や日本海側の管理は早く、例えば6世紀中盤の筑後の岩戸山古墳のような大きな墓は、その主であろう磐井がはむかったことなどから考えても、おそらく死のかなり前からすでに作ってあったのだろう。同様に、継体大王の同時代の地方大型古墳を、勝手に地方が作れたとは考えにくくなる。九州の特殊な意見を持つ集団の言うような、継体がたとえ九州の大王だったと考えたとしても、その墓を巨大に作るわけにはいかなかったわけである。仁徳陵や応神陵のような巨大古墳ならなおのことで、そういうスケールの古墳が地方にはないことこそが、当時の政治体制を物語っていることになる。仮に九州に王家があったとしても、それは岩戸山の6世紀中で終わったと考えるのがまともな考察である。その後は中央に対しての迎賓港としての既得権益だけは握れるので、「遠の都」と呼ばれる特殊地域になれたのが北部九州だった。しかしそれは既得権益であって、せいぜい海外からの珍品の出し渋り程度の小さな役得だったであろう。




古墳時代の項はこれで終了する。