東大寺建設に使われた木材の量


奈良東大寺創建時に使用された木材はどれくらいだったか、以下のシュミレーションがある。

比較するのは現在の東大寺である。現在の東大寺は江戸時代、宝永五年(1708)に再建されている。創建当時の東大寺はこれよりも一回り大きかった。(現在の大仏殿で比較すると、奈良時代のものと比べると建物は66%、内陣は44%しかない。柱の数は84本あったものを60本に減らしてある。その太さは、当時は直径1.2m、長さは40mもあった。これと同じ規格の建材を現在のヒノキで補うとすると、そのヒノキは樹齢150年近いもの〔ヒノキは樹齢100年で30mが平均〕でなければ無理である。しかも当時が天然木だったに比べて今のヒノキは人工林である。それで現在の大仏殿だけでも、創建当時と比べればずっと小さくせねばならなかった。)

これらを含め、東大寺南大門、西大門、伽藍建造物のすべてに当時要した木材は、10万石ほどもあったと想定されている。製材10万石というと、木材実材積で換算すると、2万7800立方mに相当する。現在の人工の杉の原木一本当たりなら0.8立方mだから、総本数は3万4750本が必要となる。

ちなみに今の原価で計算すると人工杉一本10万円ならば(価格は業者でまちまち)、3500万円だが、天然杉だったら一本100万~300万円以上に跳ね上がるので、3億5000万~10億円になることだろう。

さらに大仏に使われる銅が13万3110貫、錬金117貫、錫2271貫、水銀660貫、さらに鋳造に使用する木炭が1万6550石(材料の木材にして4600平方m)が必要になる。これは10人の炭焼き職人が3つの炉を使った場合、3年半かかる量である。

炭作りに使用するナラ・クヌギ・クリ1.6石で炭1.3石を生産したとすると、炉に投入した広葉樹は2万石になる。つまり東大寺ひとつ造るだけで針葉樹も広葉樹もそれだけの量が近隣の山々から消えてしまうわけである。



飛鳥寺建設から推古女帝が死ぬまでに飛鳥ではすでに46の寺院が建設されていた。単純に東大寺使用材木量その他を46倍すれば、その膨大な数値が途方もない量であったことは察知できるだろう。あっという間に奈良県の山々から樹木は消えてしまうのだ。聖武の平城京遷都その他の遷都も、桓武の平安京遷都も、そうした視点ではいたしかたないことだったと理解できよう。森を求めて動くしかない。

寺院だけではない。神社、神殿、その他豪族・平民の家屋にいたるまで、100年間もかからずに奈良県から木材は消えたことだろう。皇極女帝の頃には、すでに飛騨から縄文の匠たちを呼び寄せて饗応した記録がある。すでに畿内圏外から木材を取り寄せねばならぬ状況だったのだろう。それにしてもそれだけの大量の材木を、川を使って取り寄せるにしても、いったいどれほどの人員が必要なのか?さらに陸地をどうやって運んだのか?まことに古代人とは・・・。伊勢神宮や諏訪大社の式年遷宮や再建では、裏山が古くから管理され、植林がなされていたわけだが、その計画性は素晴らしいとしても、あくまですぐそばの山からの切り出しである。しかし首都で使う木材の量は、一神社の管理する林の数万倍になる。

藤原京建設では、建築資材は近江国の田上山から伐採されたとある。これを伐り出して宇治川から木津川を経由して、あとは陸路で搬入された。牛車である。東大寺の頃はすでに田上山も丸裸で、木材は伊賀、丹波、和泉各国から切り出されたという。ちなみに木材が近江からだということは近江の氏族の援助を推量させるので、息長氏のその後の王家登場の理由をここに求めてみる手もあるだろう。


滋賀県大津市(田上たなかみ山)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%8A%E5%B1%B1
「太古の昔は檜の枯木が鬱蒼と生い茂っていたが、藤原京造営やその後の平城京遷都や寺院の造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから田上山のヒノキを数万本伐採して用いたとされている[1][2][4]。このため田上山ははげ山となり[註釈 1]、雨が降るたびに大量の土砂が瀬田川に流れ込み、大規模な氾濫を繰り返してきたため、田上山の関津狐ヶ谷に谷止を計画し設計したオランダの技術者デ・レーケや、防砂技術の集大成「水理真宝」を著した市川義方、ヒメヤシャブシやアカマツなどを植林し緑山郡長と慕われた松田宗寿など、いろいろな人が田上山の砂防に取り組んできた[1]。この一連の土木事業には地元の人々も参加したが、大正期の地元民の手記には、「砂防工事へとワラジをはいて肩の痛い芝運搬にと、天びん棒の下で目をむいて数年間」という言葉が残されており、当時の作業の過酷さが伝わってくる[1]。江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているが、1992年時点での被植率は61.8%である[5]。」



あらたへの藤原が上に 食す国を 見し給はむと 都宮(おおみや)は・・・淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて=角材)を もののふの 八十 宇治川に 玉藻なす 浮べ流され・・・泉の川(木津川)に持ち越せる 真木の嬬手を 百足らず筏に乗り のばすらむ
万葉集巻一 50 藤原宮役民歌



ちなみに大和の国では、ツガは吉野・三諸に、マツが奈良、杉が三諸・三輪・石上・香具山に、ヒノキが三輪・初瀬・丹生・吉野に、ヤナギは葛城に、カシ類は奈良に、ケヤキは長谷に、ツバキは三輪・巨勢山にそれぞれ森林があったと、万葉和歌に読み込まれた地名から推測できる。それらが皇極までにはすでにすっかり消えていたことになるのである。




参考文献 田家(たんげ)康 『気候で読み解く日本の歴史 異常気象との攻防1400年』日本経済新聞社