飛鳥寺は蘇我馬子によって588年頃に建立された日本最古の寺院。
一方、百済の扶余王興寺建立の577年当時の百済王は昌(威徳王(いとくおう、526年? - 598年12月)である。

いずれも伽藍に類似性があり、百済様式で造られたとされる(飛鳥寺はそこに高句麗的要素も混じる)。

飛鳥時代の朝鮮半島は高句麗・百済と新興新羅が大いに争う時代だった。蘇我氏は先代の稲目が高句麗王から姫を贈られたり、馬子は新羅渡来人を優遇したりで、百済も交えてどこにつくともしてはいなかったがわけだが、百済はさかんに助成を求めて仏法とそれにともなう建造物や漢字博士、絵画、建築、瓦博士などを寄贈してくる。そうした中で最大のものが飛鳥寺だった。


飛鳥寺が百済仏教の影響を一番受けて成立したことは、伽藍の類似、百済式軒丸瓦の多用からまず間違いがないが、蘇我馬子は特に飛鳥寺塔心礎に桂甲(古代の甲冑)を埋納したと『日本書紀』が書いていて、近年、まさに飛鳥寺跡の塔心礎からそれとおぼしき桂甲が出土して話題になった。

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塔心というものは、われわれはいささか誤解しているところがあり、五重塔のような高い塔を、中心の柱(塔心)が支えているように思ってきたが、実際の塔心は、ほとんど宙ぶらりんに近く、決して塔を支えていないことが最近ではわかっている。だから塔心をはずしても、塔自体はちゃんと建っているのだが、万一地震などあったときは、それが塔全体の崩壊を防いでいることは間違いはない。簡単に言えば上からぶら下がって礎石の上にそっと触れているといった状態らしい。

だから柱の真下、礎石の下の地中には空間があって、そこに仏舎利などが入れてある。




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この塔心礎からはほかに有名な舎利容器と桂甲のほかに多彩な宝物も入っていたという。


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これは真珠だという。
まるで魏志倭人伝にある青珠を髣髴とさせる品である。

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左の扶余王興寺出土舎利容器には「577年」の年号が記され、「日本書紀」には、同年(敏達天皇6年)11月条に、『百済国王付還使大別王等。献経論若干巻、并律師。禅師。比丘尼。呪禁師。造仏工。造寺工、六人。遂安置於難波大別王寺』との記録があり、この百済の『造仏工、造寺工』などが『飛鳥寺(法興寺)』も建てたことを暗に述べてある。また飛鳥寺同様に王興寺にも勾玉が埋められていた。つまり二つの寺院は百済王が贈った寺工によって建てられたことは間違いないことになったのである。





さて、馬子が桂甲を寄贈したのは、甲冑に魔よけの意味があったためだろう。ちょうど九州の古墳に立てられた武装石人や、近畿の靫負の埴輪と同じ意味であろう。馬子は武士集団であった物部氏の武具や武器も手に出来たはずである。


面白いのは日本も百済も、仏法以前の神器であるはずの勾玉なども入れてあることだろう。仏教にそうした呪力があると信じていたなら、どうして神器によってそれを守る意識があったのだろう?つまり仏教は、伝来したときからすでに、従来の信仰の呪器によって守られるべきものだったとなる。それは最初から仏教は神仏混交してやってきたということになるまいか?すでにその前の伝来先である中国でである。いや、実は仏陀死後、仏法はすでに発祥地インドでもうヒンドゥの神々と混交していたのだろう。


ある信仰が外へ伝わるとき、必ずといっていいことだが、すでに信仰を開始した教祖は死んでおり、教義はその弟子たちによって伝えら広められるもの。すると、そこからもう最初の教祖の考えに潤色や混同が加えられるものなのだ。「盛られる」のが宿命なのである。

そう考えたとき、こんにちのエルサレムのことが思われる。

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の三つの信仰の発祥地としてのエルサレムだが、歴史的に最も古くそこをメッカとしたのはユダヤ教徒であり、その原始ユダヤ教を回帰させ、修正したのがキリストであり、その聖書を手本に都合の悪い部分を修正したのがモハンマドのコーランである。ユダヤ教はキリストの頃には本来の信仰形態からはずれ始めており、キリストはそれを元へ戻そうと考えた。そのためユダヤ教徒の権威的人々はキリストを「不都合な存在」視して磔刑に処した。処した張本人はユダヤ人ではなく、ローマ人だった。それでローマ人たちはのちのちまで贖罪の意識に苦しんだ。そこで正反対に、欧州でキリスト教を広めた。ところがそのキリスト教もまた12使徒死後、形を変えていた。そしてそれをあとの人が広める間に、広めた地域、地方の慣習に合うような改変がなされた。今、われわれ諸外国で信じられているキリスト教もそうした形を変えられたものなのであり、それもまた、その諸外国に都合よく改変されているのだ。

これは仏教もそうである。仏陀が唱えた信仰や教義は、入滅以降、さまざまに文案化されて宗派と混交を生み出している。中国では道教・儒教の影響が激しく、すでに現在の中華では仏教そのものが重視されていない。日本でも仏教は葬式の形骸だけで生き残っているだけで、人民の心はいまだに太古からの古い神道や自然崇拝を超越できてはいない。イスラム教もそうだ。諸派が入り乱れて戦争の火種にすらなっている。
人類はいまだに完全無比の信仰を手にできてはいないのだ。


つまりそれが人類であり、それが人間の信仰なのだ。


不都合と都合の間で、信仰は無数に手が加わる。
飛鳥の仏教は、そうしたすでに中国で変容したもののうち、南朝で主として用いられた密教的な混交仏法が百済を通じて蘇我氏の手に入ってきて、おそらく崇峻・推古・皇極という『日本書紀』が創作した王権の時代に、「蘇我氏だけの信仰」となったもおであり、その後、持統女帝の藤原不比等への申し送りによって即位する文武・聖武へと形をかえつつ伝承され、藤原光明子によって日本に都合のよい南都仏教として成立した、その後の残照を私たちが受け継いでいるものということなのだろう。

日本最初の天皇である持統女帝は、みずからの御影でもあるアマテラスを最高神としながら、自らは死して仏法の火葬で灰になっている。この矛盾こそが現代の仏教をそのまま語っていると言ってよかろう。そもそも天皇は神の申し子なのであり、それが仏教を持ち込むこと自体、矛盾する行為である。それが外国である百済から、いくさの援助のための贈答品として飛鳥にはやってきた。そこには日本人のすべてが仏教を心から受け入れようとしたかけらすら見当たらない。



日本人は今だに自然神つまり多神教の僕のままである。いや東アジア全体がそうだ。キリスト教徒やイスラム教徒のように、一神教こそを信じなければ生きてはいけないなどとは考えてはいない。太古の思想のほうが、平和だと知っているからだろう。