<和田谷遺跡>重要な倉庫? 遺構広がり YOMIURI ONLINE 2017年12月02日
「県古代吉備文化財センターが、古墳~鎌倉時代の集落跡「和田谷わだだに遺跡」(浅口市鴨方町六条院西)で行っている発掘調査で、新たに2棟分の建物跡や完形に近い土師器(はじき)や須恵器などが整理箱20箱分出土した。重要な施設があったことなどを示す貴重な資料という。今月中に調査を終える。(水原靖)」

●岡山県浅口市鴨方町六条院西
https://yahoo.jp/uyFqCI
https://yahoo.jp/RQvtuX

c681f4a9.jpg



ちなみに今回のニュースは平安時代のもの。
しかしここは古墳時代から続く長期的遺跡である。
その古代史の部分を取り上げる。







さて、浅口市鴨方と言えば九州の古代史ファンなら気がつく人がいると思う。

■吉備と熊襲
「ここで思い出すのは阿蘇ピンク石の調査で「朝」を名にした人物がおとなりの吉備にいたことがわかっている。景行天皇の舵取り船頭だったという朝勝見(あさの・かつみ)である(『続日本紀』十六引用「肥後国風土記」逸文)。彼の出身地が浅口鴨方町のあたりである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/42564040.html
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-2bbf.html

■朝勝見・あさのかつみと吉備の浅口と景行天皇熊襲征伐
 『肥後国風土記』に現れる吉備のかじ取り。
 景行天皇がクマソ征伐で熊本県玉名に立ち寄ったとき、その船のかじ取りの名が吉備の朝勝見だったとある。その後景行は彼の舵取りで葦北に向かっている。
この人物は火葦北国造の祖・鴨分と出身地が同じ吉備の浅口である。
 浅口郡には鴨方町がある(現在浅口市)。
 鴨分の名前から鴨方と呼ばれてきた。

この地域にいた豪族は『旧事紀』「国造本紀」に「葦北国造・・・景行の御代に吉備津彦命の児・三井根子命に賜い定める」とあるから、吉備津彦の子孫である三井根子とはおそらく鴨分のことではないかと思われる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/42564040.html

■神功皇后熊襲征伐と吉備の鴨分
 (阿蘇凝灰岩石棺の畿内登場の)すべての始まりは4世紀から。
 京都府八幡市にある八幡茶臼山古墳に使われた氷川産阿蘇灰色石から始まる。
 阿蘇と畿内との石でつながる相関関係は、倭の五王の時代にすでに開始されていた。
それが文献に反映されたと思われるのが、日本書紀神功皇后紀の記事である。
 神功皇后は倭五王に比定される応神王朝の産みの親とされ、応神を生む前に吉備に立ち寄る。
そこにいた吉備の大王的人物の親族であった鴨分という人物に火の国造となって有明海沿岸を管理するように指示したと書かれている。

岡山まで広がった阿蘇石の流れと、在地吉備の鴨分が火国造になったことは、あきらかに関連しているだろう。そしてそれが雄略の倭王の王権でのことだったことは古墳の年代を考えればはっきりとしている。少なくとも雄略の数代前の倭王の時代から阿蘇と畿内は灰色石で結ばれていた。」
以上の項目記事の出展「民族学伝承ひろいあげ辞典」ヤマトタケル・吉備・熊襲
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53138545.html?__ysp=5rWF5Y%2Bj5biC6bSo5pa555S6IOeBq%2BiRpuWMl%2BWbvemAoA%3D%3D

このように記録上に吉備の浅口や鴨分、その子孫の朝勝見や火国造、葦北国造の名は、時代を経て複数登場する。それだけ大和王朝の史書が、ここの氏族のことを覚えていた、重視してきたということだろう。なぜ?

まずはこの遺跡が古墳時代から平安時代に及ぶ長期間、非常に長く優秀なマチだったということである。平安時代にマチであるのなら、古墳時代なら、ここはクニだったことになる。要するに都市である。

岡山県古代吉備文化財センターHPにはこのように記載がある。
「岡山県古代吉備文化財センターでは、一般国道2号(玉島笠岡道路)改築工事に伴い、平成27年10月から和田谷〈わだだに〉遺跡(浅口市鴨方町)とマキサヤ遺跡(浅口郡里庄町)の発掘調査を進めています。
  これまでに、和田谷遺跡では奈良時代(約1,300年前)から鎌倉時代(約800年前)の掘立柱建物などを、マキサヤ遺跡では縄文時代中期~後期(約4,500年前)の土器や古墳時代(約1,800年前)の竪穴住居などを確認しています。」
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/gensetu-h27-wadadani.html

立地を見ると、和田谷、マキサヤ両遺跡は山陽新幹線及び国道2号線の南に並んで位置しており、鴨方町を代表する古代遺跡である。西側お隣が笠岡市で、その隣は広島県(備後国)福山市になる。福山は古代製鉄のための日本一のアカマツ林があるところで、かつてのマツタケ収穫量日本一の土地。つまり旧備後国と備中国の境目になる。今は広島県に含まれているが、往古は吉備国東部だった。

864b176f.jpg

往古、芸備は広く吉備の範疇だった。



笠岡と言えば古代史では鴨別命が出た笠臣(かさのおみ)・笠国造氏が記録されている。

0b304769.jpg


笠岡について「備陽史探訪の会HP」にはこうある。
「笠岡の地名の由来は、遠く古代にさかのぼる。笠岡の北部は高梁川の支流、小田川の流域に含まれるが、この地には弥生時代以来有力な豪族がいて、古墳時代に入ると、この豪族は吉備氏と密接な関係を持ち、「笠臣」を称えるようになる。これが笠岡の『笠』の直接な由来である。ただし、この『笠』が何を意味するのかは明らかでない。

中世に入ると、笠岡の繁栄は南部に移る。笠岡西部の「陶山」には平安時代の末期には藤原姓を称える武士団が発生し、平氏の台頭と共に史上に現れる。これが鎌倉時代から室町時代末期まで笠岡一帯を支配した陶山氏である。

陶山氏が一躍歴史の表舞台に登場したのは南北朝時代のことで、元弘の変に際して、陶山藤三義高は同じく備中の武士小見山次郎と共に、後醍醐天皇の篭る笠置山に夜討ちを懸けこれを落した。しかし義高の武功は報われることなく、陶山氏は滅び行く鎌倉幕府と運命を共にし、近江番場宿で六波羅探題と共に切腹して果てた。

だが一族の中には笠岡に残って勢力を維持したものもいた。義高の後継者の中には、将軍奉公衆(直参旗本)として室町幕府に仕える者も現れる。これが後期陶山氏である。室町時代の陶山氏は、前代以上の勢力を持ち、幕府の記録には将軍奉公衆の中では備後の宮・杉原氏、安芸の小早川氏と並ぶ『分限者』である、とある。

陶山氏ははじめ金浦に本拠を置いていたが、後には笠岡旧市街の西に省える竜王山に城を移した。これが笠岡山城で、現在の笠岡はこの陶山氏の城下町に端を発している。しかし陶山氏は戦国時代の中頃、忽然と史上から姿を消す。理由は不明だが、大内・尼子の抗争の中で、敗者としての道を歩んだものと想像される。戦国時代の後期になると、笠岡には海賊衆の村上氏の勢力が及び、今の古城山に海賊城を築く。これが村上氏の笠岡城である。笠岡に進出した村上氏は三島(能島・来島・因島)村上氏のなかで最強の勢力を誇った能島村上氏で、記録によるとこの地に城を築いたのは、能島村上武吉の叔父村上隆重であるという。」
http://bingo-history.net/
http://bingo-history.net/archives/13500



笠臣は古代製鉄・製陶・祭祀氏族だったと考えられ、東の備前の吉備氏と非常に深い関わりを持っていた氏族だ。

bf21e3a2.jpg


「国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の 領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ) を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦 神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では 笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている」Wiki笠国造

つまりこの二つの遺跡は、笠国造居住地の笠岡と鴨別命居住地の鴨方にはさまれた、重なるような位置にあるわけで、笠臣と鴨別が同族であり、吉備国造家になる吉備王一族とは兄弟のような関係と記録され、その中から景行天皇、神功皇后、そして仁徳天皇の三代の大王一族の記録に、三度にわたって関係者が書かれた氏族と言うことになる。なかなか記紀に、三度も出身者が記録された土地は少なかろう。その真偽はさておき、ここがそれほど大和にとっても重要な場所であったことになる。さらに、鴨別の子孫として九州熊本の火葦北国造や火国造となる人物がおり、笠臣からは景行天皇・神功皇后の船頭・舵取りとなって熊襲征伐や新羅征伐に行った人が出ているとされる。

1b24388d.jpg



その後、陶山氏という人が、名前が示すとおり、ここで須恵器など造りつつ武家となり、やがてそれが村上水軍にとってかわられている。陶山という氏族は尼子・大内戦争の中で一旦忽然と消える。この戦国時代、しかし大内氏には陶晴方という戦国武将が忽然と登場し、やがて豊前宇佐神宮所領を巡って豊後大友氏と合戦を繰り広げたりしている。筆者の先祖はその争いで戦死している。

陶氏が陶山氏とどう関わるかは知らないが、陶、金浦などの人名・地名が明らかに朝鮮由来の須恵器や製鉄に関与した氏族であることを語っている。半島の金浦(キンポ)などの地名をつけた土地は、日本にいくつかあり、鉱山のあった土地も多い。例えば大分県宇目町の山奥にある木浦鉱山などは半島の木浦(モッポ)から来た人々の住む町だと言う。村上水軍もそうだが、あとになって三島とか河野を名乗る海賊たちが、船釘の必要性から、古代の金山などを探索したという記録はたくさんある。例えば大分県臼杵市の三島神社は河野氏の伝説的人物であろう金が名前につく人物の建てた記録があり、すぐそばには石人を持つ古墳がある。臼杵の港は平家物語の緒方三郎が、木浦や祖母山から切り出した鉱物を運び出した港である。途中の緒方町に居館を置いて、ここで金銀・鉄・銅・錫などを選別、加工したとされている。それゆえか緒方氏と臼杵氏は兄弟で、緒方氏には特に鉱山・祭祀氏族としての特徴である蛇のうろこ形のあざがあって、ダイタというあだ名があったとされている。緒方は尾形であり、宗像氏の胸形と好対照で語られる。いずれも海人族に多い魔よけの刺青であろうか。緒方氏はまた大和の大三輪氏(大神)の出身で、もとは宇佐神宮の祭祀者だった大神(おおが)氏の末裔だともされている。持っている神話も三輪型の苧環(おだまき)神話である。

備後の笠臣も鴨別も、おそらく古代海人族だったのであろう。船の舵取りに指名される。鴨も、水野祭祀者葛城鴨氏との関係が思いつく。



岡山市(かつての備前国)の造山・作山の巨大古墳とは、間に吉備津彦神社のある総社市をはさんでやや西に離れた土地が笠岡・鴨方町である。ちなみに熊本県宇土市にある火葦北国造アリシトの子供とされる古墳の名前は鴨籠(かもこ)古墳である。石棺が直弧文で覆われていた。

d8857d13.jpg




つまり葦北国造は吉備からやってきた。その伝承を記紀は三度も書いた。大伴金村時代の靫負氏族来訪の、前の二つは前倒しであろう。景行天皇の船頭記事と、神功皇后の舵取り記事は、葦北に古くから来ている=大和王朝の地方経営はそれほど古いのだと言うがための。ただし、熊本にある江田船山古墳や大野巌古墳や井寺古墳も、充二分に吉備鴨別由来国造だった可能性があると考える。


それを裏付ける考古資料こそが阿蘇ヨウケツ凝灰岩製の石棺である。菊池川の灰色石の時代から、宇土の阿蘇ピンク石の時代まで、特に阿蘇ピンク石(馬門石)製石棺は、宇土・宇城市周辺の石室と、吉備の造山古墳と近畿各地を鴨別が運んだ証拠品である。また、直弧文もまた、熊本と吉備岡山の古墳と纏向遺跡をつないでおり、吉備の火の国管理の歴史が、三世紀後半にまで遡れることを示しているのである。



考古学はうそをつかない。
石はうそをつかない。
うそをつくのはいつも人間である。
考古学の発掘品はうそを語らないが、うそを捏造するのは考古学にたずさわる一部人間だ。だから一事が万事で、考古学はおおうそつきなどと考えるのはおろかしい。