日本の製鉄と製銅史 1 阿蘇狩尾製鉄遺跡と古代製鉄の始まり「墳墓が変われば王朝も変わった」 著・そうだじゅん


狩尾遺跡群 かりお・いせきぐん
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/15863
熊本県阿蘇町狩尾一帯に点在する遺跡群。
具体的には沼鉄鉱の鉱床を用いた簡易的な製鉄遺跡で、弥生時代後期後半に九州各地に見られ始める薄い平造りの鉄鏃(てつぞく=やじり)が造られた現場遺跡。簡易な板鉄をやじりの形に成型したときに出る三角形の切りくずがたくさん出る。それが阿蘇では祭祀用土器が作られた生産遺跡から出てくるケースがあり、狩尾遺跡群はそれに当たる。

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場所は内牧(うちのまき)温泉、鬼八伝説のある的石のある周辺の、背後の阿蘇外輪山に遺跡、平原部に朝日田、明神山、赤塚、灰塚などの鉱床群が存在する。

地名の狩尾は、民俗誌で解釈すると、かり=金属あるいは掘削して得られるおたから、尾は段丘の端っこで、周辺に赤・灰・黒などがつく地名、河川がもともと多い。狩尾地名は肥後熊本藩細川家の馬が放牧された馬牧だった土地でもあり、そちらは「まき狩り」の狩地名かも知れないと筆者は感じていた。内牧もやはり牧があった地名で、戦国期前後から阿蘇に馬牧場があったのだろう。

ここの沼鉄は多くがバーライトと呼ばれるもののようで、純鉄に炭化鉄が混じったもの。それはおそらくそもそも地層にあった純鉄が阿蘇噴火で噴出したマグマと化合したのかと感じるが科学的分析は筆者にはわからない。いずれにしても二種の要素でできた鉄で鋼(はがね)であると専門家は言う。薄い鋼製の鉄板なら、鏨(たがね)のような鉄製工具で容易に裁断できる。三角形の鉄片は、やじりを作るのに、鋼製鉄板を鋭く三角にするときに出たハツリ(切り)屑であることになる。実用には使わないそれらはごみで、祭祀する場所に一括遺棄したようだ。ただ、この鏃では薄すぎて実用品だったとは思えない。例えば後世の靫負(ゆげい)集団が背負っていた矢のような飾り矢や、墓に副葬するレプリカだった可能性が高い。貫通能力は低い。

※靫負は背中に弓矢を入れる靫(ゆぎ)を背負った古墳時代の門番・警備集団。実戦的武人の弓矢と違うのは、矢を入れるのに、一般的には羽のあるほうを上にしないと手を怪我するのが、彼らは逆に危険にもやじりを上にして入れており、彼らが実戦的集団ではないことを示している。つまり弓矢はかれらには威嚇、象徴だったのでその矢は飾り矢だったことになる。

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こうした鉄成分は、必ずしもすべてが鉄鏃のためだけでなく、鉄滓は祭祀用顔料にも使われた。つまりベンガラ製造が主な目的だったのではないかと思われる。沼鉄鉱は焼成するときに温度が高すぎるとヘマタイト(Fe2O3)の結晶が粗大化し、また鉄が含有する有機質炭素で還元され、結晶の一部がマグネタイトに変っる。ここの沼鉄はそれ含まれている。こうした黒い鉄は良質のベンガラにはならない。破棄したのであろう。

歴史上で考えられることは、弥生時代後期にここにいた人々は、朝鮮半島などとの交流から早期に簡易な製鉄、ベンガラ製造を知っており、阿蘇氏や阿蘇国造一族がここに来る前から祭祀用やじりやベンガラを造っていたわけで、古墳時代以後、豪族や国造家も、それを見越して利用するために阿蘇にやってきただろうということである。そして非実用的な鉄しかとれないために、それを靫負の飾り矢に利用した可能性もある。すると狩尾は九州の在地靫負集団発祥の地かとも考え付く。ただし、記紀に寄れば古墳時代にはもう畿内の靫負がやってきたわけなので、むしろ中央靫負集団、靫氏らがこれを利用したと考えるほうが整合だろうか?現代でも阿蘇のリモナイト(褐鉄鉱粉)は製造されていて、充分に簡易な製鉄やベンガラに利用できると思える。


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阿蘇の日本リモナイト工業さんのリモナイト置き場



なお、狩尾のベンガラは土器の彩色に使われたことがわかっている。阿蘇狩尾はつまり祭祀顔料と用品の工房だったことになる。

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宮崎県高千穂町にある鬼八の塚

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的石



しかし、阿蘇神社の阿蘇氏の祖神であるという建磐龍命(たけいわたつのみこと)は、馬飼いらしき鬼八なる従者を従えていたと言い、それはまるで記紀のスガルや武蔵国の羊太夫の従者にそっくりな伝承で、阿蘇氏がやはりずいぶんあとから中央から阿蘇に来た氏族であろうことを彷彿とさせる。阿蘇の的矢伝説では、命が放つ矢を拾いにいくのにあきた鬼八は、つい足で矢を蹴って返してしまい、命の逆鱗にふれ、しつように追いかけられて九州山地を越えて日向の高千穂まで逃げて祭られたという。過去、筆者も何度も阿蘇・高千穂往来で鬼八伝説を追いかけた記憶がある。ということは建磐龍の使っていた矢は実戦に耐えるものだったわけで、発掘とは矛盾した伝説になる。要するに阿蘇氏のこの祖神伝承そのものが、まったく阿蘇の沼鉄の性格を知らない発想で造られたことがわかるから、阿蘇氏は昔からここにいた氏族ではなかったと感じるわけである。もちろんその前にいたはずの国造家も、当然、古墳時代の王家が派遣した氏族である。ただそれもまた『日本書紀』の言うことであり定かではないわけだが。

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茨城県鹿島神宮でも建鹿島命となっている建磐龍命、関東ではなまずをおさえつける地震押さえの神になった。そのなまずの大本は阿蘇国造神社にある鯰社であろう。

建磐龍という神は、在地を支配していた阿蘇の神・神八井耳命の子だとなっていて、蹴裂き神話の神である。蹴り裂くとは開闢であり、阿蘇をあとから開墾しましたよという意味である。大分県湯布院町にも蹴裂権現が祭られており、それが大伴氏に関わる道案内の神だったことをすでに筆者は調査している。つまり阿蘇氏や国造家が阿蘇に来るのは大伴氏の古墳時代、河内王朝時代をさかのぼれないわけである。それが「宋書」倭国伝が言う倭五王であったとするなら、記紀の言う大伴氏が五王の連でもあるとなり、記紀の思惑通り、両者が同じ王家で、そのまま今の天皇につながることになるわけだが、まずそれは『日本書紀』のうそである。倭五王はあきらかに吉備にルーツがある氏族である。なぜなら古市や百舌鳥にある巨大前方後円墳と同じ規模の巨大古墳が吉備に二基もあるからだ。同じ巨大な様式の前期前方後円墳があるなら、河内と吉備は同じ氏族だったということになる。その前方後円墳の形式は、大和の三世紀の纒向の様式であるから、纏向遺跡の王も当然吉備の氏族の遺跡なのだ。そのとおり、纒向からはちゃんと吉備の特殊器台と弧文が出てくる。ということは河内にあった王朝は、三世紀の大和にいた吉備王家の、子孫ないしはそれを乗っ取った王家だと言える。だからといって筆者は、纒向が邪馬台国であるなどと言ってはいない。そう決まるにはまだまだ証拠が不足しているからだ。

古墳様式の話を書いたついでだが、墓の様式が変るとき、当然、王朝は変ったはずである。例えば弥生墳丘墓が円墳になったのならそこで一度、次に前方後円墳や前方後方墳に変ったならそこで一度、またそれが縮小化されて方墳になったならまた一度、そして上円下方墳になりまた一度、最後に上八角系下方墳になってやっと天皇家という具合にである。

それぞれ記録にあてはめてしまえば、九州の墳丘墓は九州の王の墓、近畿の方形周溝墓は近畿の王の墓であるし、それぞれ各地に王家があった時代だとなる。それが方形周溝墓が圧倒的に全国化したのなら近畿王家が全国を支配し始める吉備王の時代なのであり、そこから纒向に前方後円墳が登場するなら纒向は吉備王が遠征し、葛城などの在地勢力がそれと合体した時代、つまり邪馬台国時代なのである。さらに吉備と葛城が乗っ取られると前方後円墳は超巨大になり、河内に「葛城氏」による倭五王が登場した時代」となって、方墳になったのは飛鳥の蘇我王朝時代、それが小さくなって上円下方墳になったのなら蘇我が藤原に消されてしまう儒教思想~道教思想の天智~天武時代、八角形になったのは道教思想の持統天皇の時代であり、最終的に今の上円下方墳で定着したのが桓武時代=天智・息長系天皇家であると考えるとわかりやすいか?

古墳が変れば、王家も、祭祀も変化した。当然であろう。文献に悩まされているからわからないだけである。考古学ははっきりしている。ほかの形状の古墳は?そりゃあなた全然別の民族の来た証拠品でしょう?

河内の巨大古墳は纒向の前方後円墳を踏襲しつつ、歴然としてばかでかい。旧来の王墓をふんだくって、しかも大きくしたもの。答えはすぐ出るでしょう。記紀のうそに振り回されているアカデミズム研究者たちだから、いつまでも決められないだけだ。違いますか?学者に決められないならわれわれが決めてあげればいいんじゃない?優柔不断な学界意見など時間の無駄ですよ。

さて製鉄にもどると、日本の鉄の使用はすでに縄文晩期に、水田の到来とほぼ同時に入ったことがすでに考古学では明確になっている。遺跡で言うなら縄文晩期の福岡県二丈町曲り田遺跡で板状鉄斧(てっぷ)が出たし、弥生前期初頭の熊本県天水町の斎藤山遺跡からも手斧が出ている。九州北西部は、日本最初の大陸の水耕稲作と鉄器と舶載品の入った中継地である。

そこから鉄製品は南部九州、瀬戸内、山陰へと広がってゆく。中期後葉になると近畿に伝わった。関東・甲信地方には後期に到着している。福岡と熊本の斧は双方ともに学者は鍛造品としたのだが、考古学者は形状から鋳造品としたいようだ。今のところ鋳造鉄が入った最古は山口県豊浦町山神遺跡の弥生中期の鏃となっているが、まだわからない。しかし輸入玄関であった北西部九州に最初に鋳造品も来ていると考えたほうが歴史的には整合ではあろう。

原料鉄の入ったのは(つまり地場製鉄の開始と言い換えてもよかろうが)、弥生中期福岡県春日市の赤井手遺跡で銑鉄及び鋼原料(分析ができるようになる以前は、多くの原料鉄が「不明鉄器」とされてきた)であったし、同時期に長崎県壱岐原の辻、唐神遺跡で中期板状鉄が、山口県下関綾羅木遺跡でも、棒状か板状原料が出ている。ただしまだそれと製鉄工房跡との合致がまだ見つからないようだ。

鉄滓が出る(つまり明らかに製鉄した)遺跡は、弥生前期末の京都府峰山町扇谷遺跡(持ち込まれただけかも?ベンガラ素材として?不明)、中期末の鹿児島県王子遺跡、中期末の春日市赤井手遺跡、後期後半の石川県七尾市奥原峠遺跡、古墳前期初頭の千葉県八千代市沖塚遺跡などが古い。奥原峠遺跡では鍛冶工房も一緒に見つかっている。こうしてみると古代王国があっただろうと考古学ファンが考えてきた丹後(丹後王国)地方や越前(越王国)地方や若狭地方、またまったくこれまで後進地帯と考えられてきた南九州鹿児島でも、それらの地域よりもかなり早い時間枠で見つかったわけである。
参考文献 佐々木稔編集著作『鉄と銅の生産の歴史 ―金・銀・鉛も含めて―』雄山閣 2002