「 高校の歴史教科書に載る用語が半分になる可能性がある。14日の朝日新聞によると、「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題」だとして、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が用語の精選案を発表。知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべきだとしているという。

 「気候変動」「グローバル化」などの追加が検討されている一方で、日本史分野の削減対象にあげられているのが「坂本龍馬」「大岡忠相(大岡越前)」「武田信玄」「上杉謙信」「吉田松陰」だ。いわば歴史上の“スター”だが、なぜ教科書から消える可能性があるのか。」



ほう。


昔の教科書には、確かに坂本竜馬がなかったようで、これは小説家司馬遼太郎の超人気作の映画化やテレビ化の影響が大きい。いわば竜馬は裏方だし、竜馬に相当した影の功労者なら山ほど出てくるはず。

吉田松陰も、時代の中ではそれほど存在感が無い気もする。

信玄・謙信の川中島戦いも、そうした視点では確かに敗北者でもあり、通過点・・・



と、紋切り型に消し去ってしまわれると、われわれ世代は、「おっとそうなるか?」の感が強い。

例えば川中島は、地形・地理という視点で、古代から重要な場所にある。受験のためにコンパクト化するのが、果たして、本当に日本人のためになるのか?がある。


これまで、教科書は聖徳太子を厩戸王に変えたし、音楽では唱歌や名曲を切り捨てている。それが受験のためだけなら仕方が無いが、しかし教育はそれでいいのかとも思う。むしろ、人間の能力を信じるのなら、脳はいくらでも知識が吸収できる。簡略、安易、短縮の世の中か・・・。


学校の短い時間枠ではそうなるしかないのか?


だが歴史は長じてからもう一度学びたいもののひとつである。そうした若者の将来の学習意欲までも、それは消してしまうのではないかと危惧する。



無駄をすべてなくしたら、きっと人類は、真実の大切を忘れてしまいそうで怖い。



無駄のほうが大事ではないか?




何よりも困るのは、世代を超えた共感が喪失してしまうことだ。話題が断絶する。すると年長者を若者は別人種とますます感じ、言わせてもらうならビール瓶でなぐりたくさせてしまうのではないかなどと、つまらぬ老婆心が頭にもたげてくるんだが。もちろん逆も起きるだろう。日本人共通の知識まで、教育は分断したいのか?なのである。