これは宗派や地域に限った悪習である。
特に地縁的結合の残存度の高い田舎には、いまだにそういう風習がある。

これは大分の友人に昨日はじめて聞いた話だが、大分では坊主にそう言われるらしいが、そんなの大分だけですよ。と言うのである。

●●家の墓・・・昔はそれが必ず家にはあって、今のように核家族になるまでは、誰でも家の墓に入れていた。ところが次男・三男が遠隔地で結婚するようになると、なぜかそういう排他的な悪習が根付き始めたらしい。

けれど日本で墓に入るのは、なんらの規定・規則・法律はない。誰がどこに葬られようが法律上はなんの文句も国・自治体は言わない。それはもう明治時代だろうが、江戸時代だろうが、現代だろうが規則がないのである。ところが坊主がそんなことを言うのは、現代のように家族が小さくなって、檀家が激減した時代風俗に実は逆流する考えだ。そもそもお寺だって営利企業である。長男以外は断っていては商売になるまい。


それどころか、寺も今や、営業する、出張する時代である。だからそういう悪習をまだ言っている地域は、檀家がまだ多い田舎だけだということになる。つまり大分は田舎なのである。それが大分市のような都市部でまだ言われているとは情けない。


地方には奇妙な慣習が多い。田舎へゆくほどに多くなる。


鹿児島県や山口県には、いつまでも幕末の話、西郷どんの話、九州各地へ拡張しようと遠征していた時代の話で盛り上がる世代がいる。これが福島県では、いつまでも薩摩・長州からだけは嫁はとらぬなどとなってしまう。いったいいつまでそんな大昔の怨恨が残っていくのだろうと思ってしまう。

九州の西部には、古代史で九州王朝がいつまでもあったという人々が山ほどいる。話を聞いていると九州王朝は7世紀まであったのだと言う。7世紀と言うと天武・持統の時代が含まれ、さすがに大和には天皇制と律令国家ができあがっている。少なくとも継体大王の筑紫君磐井征伐の頃には、筑紫も北関東も中央集権の一角におさまっていて当然である。大変残念で困ることに、九州に王朝があったにせよ筑紫には大和の記紀のような文献が残っていないので、なにひとつ確かなことが言えない、比較しようがない。

筆者は、6世紀までは、まだ先の王家としての存在感だけは近畿に底っていたとは思うが、九州の王家が本当に栄えていたのは2世紀までだと思える。3世紀以降、考古学では中心地は吉備へと動いているし、4~5世紀には河内へ動き、6世紀は明白に飛鳥の時代になる。そこでまだ九州王朝が独立していたのなら、九州の古墳に直弧文が描かれたはずがないのである。そして倭王から飛鳥王家の時代に、阿蘇のピンク石が運ばれたはずもなくなる。

全国を古代史探訪で歩いた経験、あるいは若い頃近畿各地で働いた経験では、やはり地域の郷土史だけ知っていてもだめで、広く世界の歴史を理解しておかねば、安易に地域王朝の残存などいくら言い募ってもほかの地域の人は聞く耳を持たない。

昨日だったか新潟県の柏崎で弥生の環濠大集落が発掘されている。しかし新潟県で、だから越には北陸王国があったと言い出す人はおるまい。3世紀のそのような遺跡が九州や近畿で出たら、必ず「すわ!ついに卑弥呼の遺跡か?!」になってしまうだろう。

信玄・謙信の川中島は岐阜県にあるが、そこは例の関が原があり、西へ向えばすぐ伊吹山があって、越えると近江琵琶湖である。ここの地形は東が高く屹立し、西へ出るとなだらかに琵琶湖へ降りてゆく地形で、ここに不破の関が設けられたのはしごく理解しやすい。東からは入りにくく、西からは伊吹山の麓しか通り抜けるような道が無い。そういう山々の東側だけに開けた台地があって、ヤマトタケルも信玄も家康も、ここで合戦している。ここは北の北陸から、日本海の冷たい風が吹く抜けてゆく場所で、古くから鍛冶屋が多かったし、雪も多かった。鍛冶屋が多いのは飛騨などの縄文からの森林があって炭が作られ、製鉄に向いているからであり、季節風が強いために、鍛冶屋の火を守るには絶好の地形であった。だからここはいくさをするときに武器がすぐに調達できたのである。それがのちに刀鍛冶屋を有名にしてゆく。関のヤタッペなんぞの任侠話が多いのもそういうわけだ。

同じように風が強いのが北関東である。特に群馬は空っ風の名所で、やはりやくさものの産地でもあった。「赤城の山も今夜かぎり」の国定忠治や、のちには木枯らし紋次郎も上州新田郡の出だとなっている。ここは古代から古墳と製鉄、よろいかぶとが出てくる。そして渡来系工人が多く入ったから、鍛冶屋、養蚕、絹織物などが税であった。それで上州のおかみさんたちは養蚕で夫から独立採算できて「気が強い」「なんたら女房と空っ風」が有名になった。
その工人たちの基礎科学が、のちに明治政府が作り上げた生糸官制工場や足尾銅山開発へつながっていったのだ。

その生糸生産は産業となり、南関東の港を潤した。横浜や横須賀はそうやって関東の玄関口へ発展する。生糸は英国へ輸出された。英国王家が日本の絹を最高としたから横浜は国際輸出港へ発展できたのだ。


地方には、そうした歴史的事情があり、そうなったには、ちゃんとした古代からの地形や住人が深く関係した。経済活動、政治活動のはじまりにはすでに古代からわけがあるのだ。そしてそれが世界とつながる。だから世界史、東洋史、中国史、遼東・半島史のすべてが日本史につなぐことができるのだ。それがグローバル古代学である。

地域だけ、自分のいる場所だけ知っても、外へつないでいかねば、歴史の一こまは頭の中でビジュアル化できない。どんな人々がやってきて、どんな産業は始まって、そのわけはそもそも地形にあって、どの王家がその地域を欲するようになるか・・・それをつないでゆくのが歴史だ。

3世紀以降、吉備や河内から国司が入ってきて、同時に半島などであらそいごとがあって、必然的に筑紫は中継地になったのである。なったということはすでに中央に大きくは管理されるようになったと思わねばならない。

卑弥呼は3世紀には伊都国にもう一大率を置いたのである。監視していたと書かれたのだ。この一文だけでも、ああ、筑紫王家は邪馬台国の傘下の一国になっているのだと気付くべきである。邪馬台国がどこにあろうが、その事実はなんら変わらない。


鹿児島県に行くと、そういう郷土史愛好家たちの、いつまでも自国を熱愛する意識が変わらないことに気付かされる。きっと青森や会津に行ってもそうだろう。日本のはじっこにいること、あるいは山間でさえぎられた盆地にいること、そこに歴史的な必然があったことを早くから子供たちには教えるべきだ。古い儒教観念や論語に熱狂してひまがあったら、自らが敗者だったことに気がつき、なぜそうなったか、どこで先祖は間違ったのかを教えることだ。反面教師にさせるべきだ。


負けたことをいつまでも怨嗟で語り、いつまでももし歴史がこうだったら・・・と考えさせてはならないことは、韓国を見れば一目瞭然わかるだろう。韓国もまた儒教のおしえの奴隷になりすぎて、いまだに恨(ハン)の怨嗟から開放されていない。


いいものは残さねばならない。悪いものは早く忘れねば次へはいけない。若者がふっきれないければ、その地域は真に発展しないだろう。


そのうちにまた鹿児島湾でカルデラが怒りはじめるかも知れない。南九州の縄文人を死滅させた大爆発がまたいつ起こるか知れぬ。そういう地域なのだ。そういう地域であることを学校はちゃんと教えねばならない。しつこく教えるべきだ。自然の猛威がそもそもそこにはあった。だからそこにいる人々は、そこしか住めなかったから今もそこにいることになった。それは歴史であり、地理の不条理であろう。しかし、そこを本当に愛するなら、そこを未来にむかってよい場所に変えることこそが最重要である。いつまでも過去の敗北や勝利に酔っている年寄りたちはもう過去の人にしてゆかねばなるまい。





筆者はそう思う。



筆者だけかも知れないが。



九州王朝論も、川中島も、会津戦争も、早く捨てなさいな。平成すらもう終わる時代なんだよ。



悪習は地域を腐らせる。