祟り神という観念は、平安時代よりも前からすでにあったものだったが、なぜか平安後期になるとにわかにそれが怨霊信仰として貴賎を問わず都に流行した。

その理由はいくつもあるだろうが、まずは科学では、平安後期の温暖期に端緒を見つけ出せる。

よく言うことだが、平安なときには、暗く悲惨な流行歌が流行るもので、江戸の元禄時代にはやはり物の怪たちの具象化が起こり、怪談噺が流行っている。つまり要するに、人はひまができれば=安定すれば、好奇心を出し始める生き物なのである。

温暖であることは第一次産業の安定を約束し、それで政治も安定するので、町民ものんきになる。平安時代はおまけに大陸との交渉もさしてせず、内向きな国風文化が隆盛した時代である。こうなると人々はかえって末法思想なんぞにうつつをぬかしてしまう。

平安京は魔界であるとか、あるいはあの世とこの世の境目が山ほどあるなどという。住んだ経験では確かにそれはある。筆者にとっては南区の月の輪などは、はじめて金縛りにあったりしたところだし、鳥辺野、化野、清滝、将軍塚なんぞは霊気を覚えた記憶のある魔界ではあった。けれどそれも昭和元禄の高度成長期と気候の温暖、天災の少ない安定期だったからかも知れぬ。なんとなればちまたでは暗い昭和歌謡曲からフォークソングなんていう、安穏な、それでいてどこかしら無理に「つらかった~~」(神田川)みたいな台詞を使いたがる、そんな時代でもあった。


京都での20年で、最も怖いと思った場所はどこだろうかと考えると、やはり最後に住んだ岩清水八幡宮界隈である。現実に怖い人々の住まう地域だったということもあり、生々しい経験もあったからだが、本来、京都の怖さは塩小路とか七条、あるいは糺の森、宝ヶ池、みずろが池などの暗所、裏路地にこそあるべきものであろう。学生時代の高度成長期にまだ、塩小路と鴨川が交差するあたりにはポン引きのおにいさんが女装して立っていて「おにいさん、いいとこあるわよ。遊んでいかへん?」みたいな緊張の一瞬が残存していた。なにしろ、七条から南、松原通、壬生などは、なかなか学生にとっては危険な世界がまだまだ残っていたのである。

時が安定化していこうとすると、だいたい若い衆は奇抜や天変、地異を望むのだから困ったものである。怖いもの見たさであろうか。わざわ東寺デラックスのある小路を選んで帰宅してみたりしたものである。

現代、さて気候は温暖化し、ちょっと前までは政治も安定していて、またぞろの怨霊・聖地・神霊スポットブームが来ようとしていたようだったが、諸外国の戦争志向がやってきて、今はどうなのだろうか、というときにテレビではなぜか京都・異界・怪談をよく取り上げている。あまりに猛暑ゆえの傾向か?

怨霊信仰が平和のシンボルだった時代、安倍晴明なんぞも考え出されたわけで、晴明が映画のようなしろじろとした弥生的のっぺり顔だったわけはない。安部氏ならばもっと縄文的な濃い顔つきだっただろう。なにしろ安部氏は近畿の先住民だし、それゆえに東北へ派遣され、蝦夷と混血したのだから。


もっとも、そういうイメージのほうが、霊的なようには見えるんだろう、現代人には。ようは、日本人はお化けや祟りがレクレーションになる素養があるということだ。