なぜ黄色い鳥居があるのか?
陰陽五行で黄色は土、中央を意味する色。



吉野裕子『狐』(法政大学出版局)は、農耕文化では特に「土」気が重要で、「狐の黄色」、「黄色によって象徴される土徳」、「この土徳即年穀の恵みへの期待」、すなわち狐は土気(どき)の象徴だとする。

科学的に理性的に言うなら、まず鳥居に色を塗るのは第一が腐食防止であり、本来何色でもよい。しかし古代、一番多かったのが水銀の赤である。そのことこそが「腐食を防ぐ」=「僻邪」「魔よけ」「生命力」につながり宗教性を持つ理由であると考えられる。建造物への彩色は、日本では遅く、中国から取り入れられた。その前はすべて「きなり」である。材木のそのままの色だった。
では黄色はなぜなのか?

その多くを山岳で見かけることが多く、筆者が最初に見つけたのも県内の尺間神社だったことから、山岳信仰と黄色い鳥居が関係していると見ている。


別府市尺間神社の黄色い鳥居
尺間(しゃくま)は、一歩一歩尺取虫のように山を登ることから出た。


陰陽五行の土気は、山岳の頂上でもあろう。山頂は上空から見れば丸い山麓の中心つまり中央を意味するので「土」になる。そこを目指す山岳信仰に黄色い鳥居が多いのではないか?吉野の言う稲荷=狐=黄色もあるだろうが、愛知県豊田市の猿田彦を祭る猿投(さなげ)神社も黄色い鳥居で、キツネだけではない猿だって黄色いのだ。さなげと読むからわかるだろうが、ここは「さなぎ」つまりきっぱりと言うが製鉄の神である。もとより製鉄、精錬などの重工業と五行の黄色・土=大地は当然、山岳密教と深くつながっている。というよりも修験の副目的は博物学特に薬草と鉱物である。これは中国商=殷の時代から夏王禹が山岳彷徨して薬毒草や貴金属などを不老長寿のために探した頃からなにも変わらぬ所業である。


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では黄色を科学的に考えると霧の中で可視率がよい色とされてきた。例えばフォグランプはかつてたいがい黄色であった。あるいはカナダの霧の名所セントジョーンズ市では、すべての消火栓を黄色く塗っている。その方が見つけやすいという理由だ。霧のない都市では普通はやはり見つけやすい赤を用いるところが多いのであるから、黄色が霧でも見えやすいというのはなかなか山岳も霧が多いから納得しやすい説になる。ただし、理化学的に間違いなく黄色がスモークの中で発見しやすい色No,1かどうか論文を知らない。そういえば昨今のフォグランプは黄色くないそうだがこれは科学的に新しい技術が生まれたからだろう。

カラスは黄色いゴミ袋だと生ゴミをあさらなくなるそうである。鳥は黄色を嫌がるのか?もしそうなら黄色い鳥居は赤より汚れにくいことになるが?であるなら鳥が黄色い羽を持つのは敵からの保護色だとなりなるほどとなる。もっとも、鳥居は鳥が止まってくれることが目的でもあるから、この説ははなから意味がなくなるが。鳥は太陽の使者なのであり、魂を運んでくるので、神社などは極力留まってもらいたいわけだ。

太陽信仰は、日本で最古は弥生時代、2世紀後半の倭国の乱前後に、北部九州で漢鏡を欲するようになった頃が始まりで、理由はその時期が寒冷期だったからである。だから鏡は、雲や火山灰で隠れてしまった太陽の再来を望んだ、その代用だったことになり、九州で巨大な内向花文鏡が作られたのはそのためである。内向花文の模様は花ではなく太陽光を表しているから、花文という名前は早く変えるほうがいいと筆者は考えている。あれは陽光鏡なのだ。しかも内向でもなく、外向である。そとへ燦然と光を放つ太陽の鏡なのだ。わかっちょらんね、考古学者は。





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(次回、卑弥呼の鏡は内向花文・画文帯、どっちか?を書きます。お楽しみに。)

鏡の祭祀が始まると、それまで九州での祭具だった銅矛=武力開拓の象徴は少なくなっていった。近畿に鏡のブームが及ぶと、そっちでは銅鐸が消えた。出雲では銅剣と銅鐸両方が消えたのである。これは信仰の一大変換であった。神そのものも変ったのである。しかし本家の中国では鏡は僻邪の魔よけであり、倭国や公孫遼東の新興太陽信仰は「鬼道」でしかない。1~2世紀は大陸も九州もヒエラルキーの拡大上昇志向時代で、これは世界的に帝国主義的な時代である。普通なら農耕神に祈らなくても良いのだが、あいにく気候が悪化した。だから世界中で太陽信仰がにわかにムーブメントを起こして古い戦争の神にとってかわるわけだ。それはそのまま平和への祈りである母神の象徴でもあった。太陽神は女神として登場する。それで巫女が常にこれをなだめねば怒り出すわけだ。

黄色は大地である。つまり山岳修験者たちは、霧の中でも見つけやすい黄色い鳥居を峰入りの目印にしたのだ。それは彼らが最重視した大地母=グレートマザー=地球なのである。山の中心のそこは天の太乙=北極星でもあるから、土=星となり、どちらも「つち」と呼ばれた。星はなまって「つつ」地名になっている。そこは中心地という意味である。

民俗学者は、かつては平民にもやさしいはずだった言葉やモノや色の意味を、とかく難しく考える。