当ブログ「大内陵墓盗人の記録「明月記」「実身+弓(さねみ)卿記」1」より
なぜ持統女帝の遺灰は盗掘時打ち捨てられたのか?再論




天武棺と持統遺灰銀容器 飛鳥大内陵




■持統の遺灰は捨てられた!
藤原定家「明月記 めいげつき」に曰く。
●「文暦二年(1235年)、三月二十日、大和国高市郡の天武・持統天皇合葬陵(大内陵)を破壊して金銀宝物が盗まれたと「百蓮抄」が言うが、これを聞いて奈良や京都から多くのギャラリーが押し寄せ、陵内に押し入り御遺骨を拝し奉り、感涙の涙を流す。」

持統遺骨は日本初の火葬であったため銀製の骨壺に収められていたが、盗人たちはその壺ごと持ち出し、事もあろうに中の遺灰を路傍にぶちまけ、壺だけを持ち去った。天武天皇の遺骸はそのままの状態で、頭蓋骨にはまだ白髪が残っていたとある。


「明月記」はまた記す。

●「山陵を見奉る者からの又聞きであるが、話を聞くたびに哀慟の思いがますことである。御陵においては再び埋め固めたそうであるが、定めし粗末で簡略なやり方であったろう。女帝の御骨においては、銀の筥(はこ)を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」原文


●「奉見山陵者、伝々説、毎聞増哀慟之思、於御陵者、又奉固由有其聞、定簡略歟、於女帝御骨者、為犯用銀筥、奉棄路頭了、雖塵灰、猶可被尋収歟、等閑沙汰可悲事歟」


この事件から60年後、再び盗掘があったことを三条実身+弓(さねみ)が書き残している。犯人は僧侶。このときは天皇のしゃれこうべ(頭骨)が持ち出された。


*大内陵は何度も比定地が変わった歴史がある。
1698年江戸幕府は高市郡の野口の王墓(現在の天武・持統天皇陵)に。
1855年今度は橿原市の見瀬丸山古墳に。野口の王墓は文武陵になった。
1881年明治政府は再び野口の王墓を大内陵と指定。以後、現在の場所に。



『阿不木乃山陵記』
●「件の陵の形八角、石壇一匝(ひとめぐり)、一町許攷、五重也・・・」
この記事が位置をもう少し書いていれば、二人の墓比定地はこうまで行ったり来たりはなかっただろう。

しかし、古墳の中の様子や形状についてはこれほど詳細な記録はほかにない。
この記録から、奈良では天武・持統の棺、骨壺が復刻された。
以上参考文献 平凡社選書『墓盗人と贋物づくり 日本考古学外史』玉利 勲より
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/33979525.html


■持統と火葬
●「薄葬令(はくそうれい)」と火葬
巨大古墳の造営は民衆に多大な負担をかけたことから、大化の改新の翌646年、新政権は民衆の犠牲を減らすため薄葬令を発布した。
(1)身分別に墳墓の規模を制限
(2)天皇陵の造営にかける時間は最大7日以内
(3)人馬の殉死や殉葬を禁止、
こうした制限事項を加えることで陵墓は小型&簡素化され、前方後円墳は消えていった。

またこれに伴って、持統天皇は仏教の火葬を自ら実践。諸侯への手本とした。遺灰は銀製納骨器に入れられ夫である天武天皇大内陵に埋葬される。しかしやがて盗掘を受けた際、持統の遺灰の入った銀製納骨器も引き出され、遺灰は路傍に討ち捨てられ、銀器だけが消えていたと『明月記』は語る。




なぜ天武の遺骨はそのままにされ、持統の銀器だけが盗まれたか?もちろん銀製だったからである。しかし、ではなぜ遺灰を道端に遺棄までされたのか。天皇の遺灰をそこまでする必要があったのだろうか?いくらんでも不遜ではないか?

天武と持統の間柄を、記録は非常に好意的に描き出す。陵墓にあとから一緒にするほど仲がよかったと、われわれも信じ込んでいる。本当にそうであろうか?



■天の香具山の歌に持統出生の謎が潜む?
昨日、かわかつWorldに持統天皇藤原遷都・即位後の和歌を載せておいた。
あまりにも有名な歌である。

はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あまのかぐやま
万葉集
はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま
新古今・百人一首


その解説は、一般的に藤原宮から見える初夏の風景を詠じたもの、となっているが、それでは単なる情景詩となってしまう。初夏の香具山に干された白い布、ああ、もう初夏になったのねえ・・・。たったそれだけの和歌になる。



大和三山位置関係図 持統は藤原宮から東の天の香具山を見ていた





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右奥が南方向 中央三山に囲まれた低地が藤原宮


■持統女帝も蘇我氏の末裔!
持統天皇の母親・造媛(遠智娘(おちのいらつめ、生没年不詳))は、父親が(つまり持統の祖父)蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらの・やまだのいしかわのまろ)である。従兄弟入鹿を惨殺できず、父中大兄によって冤罪をかけられ殺された人物だ。持統は蘇我倉山田石川氏の末裔でもあるのだ

すると持統にとって父親天智は、祖父を殺したカタキだったことになるのだが、実の父が天智天皇となり、やがて山科に狩りへゆき、その後病死しており、この事件も実は夫天武の周辺にいた豪族たちの暗殺だったという説がある。これを山科遭難として「履を残して消えていた」とする記事が見える(『扶桑略紀』)。

「二年後には天智自身もみまかった。このとき、すでに大海人は都を出ている。壬申の乱のきな臭い予感の中、天智は狩りに行き「履を残して遭難した」とも書かれる。これは「狩り」「履」「遭難」がセットなので典型的な「王の死」記事であり、履を残したとは「再生願望」の表現なので、天智・大友皇子という守旧派の希望的書き込みであろうか。」

記紀に対する異説である。体裁を重んじる正史『日本書紀』よりも異説。風聞には説得力があるのは世の常である。

そうなると夫天武もまたカタキになってしまいかねない。なんともややこしい人間模様ではないか?本当に持統女帝は天武の妻で、天智の娘だったのだろうか?


■額田王の前例
ここで面白い話を挿入しよう。天智の妃となったあの有名な額田王(ぬかたの・おおきみ)と天武の悲恋である。これもひとつの、古代貴人たちの複雑な結婚の例証である。

額田王は母親が鏡王女(かがみのおおのむすめ※)。鏡女王は最初は天智の妻で、天智が鎌足に下賜されたという。父親は鏡王。※ゆえにこれを「かがみのおうきみ」とは読まず「かがみのおうのむすめ」と読むべきだといわれ始めている人。その娘が額田である。最初は天武と恋に落ち、それを天智が奪ってしまう。紫野の歌とともに有名すぎる話である。

あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

この和歌の分析はすでにかなり前に済んでいる。紫野とは薬典の植物園がある京都の鳥辺野にあった地名で、大海人皇子がそこへ山野草・薬草狩りに行こうとしている騎馬姿を、額田がそっと見送るときに、大海人は振りかえって「袖を振った」つまりバイバイした。その姿を野守なんぞの身分の低いものに見られたりしたら、それこそいっぺんにうわさが広がりますわ。大胆な片ね、はらはら。そういう歌だ。二人はつまり偲びあう仲だった。

そういうほのぼのした二人を、天智は引き裂き、無理やり額田を奪うのである。往古、こうした略奪結婚は普通にあったわけだ。

ならば持統と天武はどうだったのか?天智の娘なら、なぜ叔父の天武に、天智が娘を出すのか?それほどの「虎」だったのか天武の実力は。『日本書紀』は天武を確かに「虎を野に放つ」と表現しているが?天皇がおばやめいを嫁にする話は、ほとんどが天孫血脈を切らせないために、神話~かなり古い時代のこととして書いてはいる。しかし天武あたりの時代以後は本当にそうしていたか?これはわからない。大正天皇の例もあるからあったのだろう。しかし持統は実際には天武を憎み、また愛してもいた。

ここが複雑である。愛していたとは『日本書紀』が言うだけで、実はそうではなく、父のカタキと見ていたとすれば?持統の乳母は渡来系の河内地方の馬飼氏である。鸕野馬飼い、讚良馬飼いがあった。一方天武は岐阜の多氏湯沐である。馬と海。水と油のような氏族だ。天智のカタキと考えていたとすれば、持統は長男草壁に皇位を譲りたくなかったとも考え付くし、ならば草壁の夭折もなんらかの政治的暗殺か?となる。


当時の暗殺実行は、諸説あるものの、まずは本人よりも周囲の暗躍が多いと遠山などは書く。天智や天武がそう思う前に、周囲がそれを察してやってしまうということである。天皇が直接手を下すことも、命令も出すわけでもない。勝手にしてしまう。もちろん暗殺の命令など出すはずもないし、出しても記録されるはずはない。記録にはだいたい謀反を企んだのでとかのこじつけが書かれて、仕方なく追討令を出す形が多い。

天武の子供、草壁皇子や高市皇子だってそういう、ゆえあっての夭折は十分ありうるのだ。


■天武の赤、対する大友の白
壬申の乱で天武側は赤い衣装を身に着けた。これは実際にそうだったかとかではなく天武の天文遁甲趣味から、赤を貴重とした道教の考え方で、赤が南で赤い鳥つまり朱雀であるという考え方であり、壬申紀がそもそも『前漢書』の赤帝である劉邦の前例を基礎にして書かれているからなのである。天武治世の元号が朱鳥であるのもそこから来ている。記録では瑞兆として筑紫から赤い鳥が謙譲されたからだ、という定型パターンになっている。つまり赤い布=天武である。これは先日も書いた。

一方、天智の子・大友方は白である。これを火克金の遁甲思想だと先日書いた。

だから持統の遷都・即位後に詠まれたこの和歌の白妙の衣とは、つまり天智・大友のことを指しているのだと見て取れるわけである。すると解釈は一般的な情景詩から、一転して、政治性を帯びてくることになる。これが歴史の和歌の読み方である。

夫の時代はそれはまあ春だったけれど、憎い人だったわ。けれど今、ついに私たちの時代。初夏が来たんだわ。ようやく父の夢だった独裁の世がやってきた。(さらには蘇我家の復活でもあった!)

とこうなってしまうのだ。




■不比等が天智を皇祖に、天武を高祖に脚色
その後、孫の文武に繋ぐまで、元明・元正女帝と女帝が続くが、元明・元正は持統の姉妹、つまり天智の娘である。その時代に宰相となった藤原不比等は、記紀イデオロギー実現のための着々とした証拠作りに励んでいる。まずは藤原宮という宮そのものが藤原氏の土地である。すでに持統の頃からそうなのだから、藤原氏の力で持統も女帝になったようなものであろう。天智の陵墓を藤原宮の真北に当たる京都山科(鎌足所領)に造営し、天智=北=天子=北極星としてしまう。ちょうど徳川家が家康を大権現=始祖として日光に祭ったように。いやその前例である。






また真南に天武大内陵を造営。この位置関係では天智=天命天子、天武=朱雀となる。つまり藤原宮にとって=大和朝廷にとっての始祖王は天智だとなるのであり、天武はそれより格下、南を守るだけの存在にされてしまったことになる。


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■天智 蘇我重用の謎と乙巳の変首謀者の真実
どういうことなのか?革命で権力を手中にした大王天武が、なぜ滅ぼした大友の父親より格下に?これこそが『日本書紀』の最大の目的なのである。蘇我の血を引く女帝が建てた藤原宮。天智の宰相もまた蘇我安麻呂、赤兄だった(ほかに中臣金ら)。蘇我氏?それを滅ぼしたのはほかならぬ天智(中大兄皇子)だったではないか?

蘇我本家とは母屋と分家とはいいながら、そもそも石川麻呂は馬子の孫である。蘇我氏に変わりはないのに、なぜ重視したのか?麻呂が本家を裏切り告発したからである。しかしどっちにしても蘇我氏であり、その分家の子孫を天智は宰相とした。それは石川麻呂へのつぐないだけだったか?それだけではあるまい。それだけで二人(蘇我倉安麻呂と赤兄)も重用するか?

つまり乙巳の変の首謀者とは中大兄ではなかったということだ。首謀者は軽皇子(孝徳)だったのである。だからこそ、天智は孝徳を裏切り、鎌足別宅が近い近江に
遷都したのだ。

ということは中大兄と鎌足が蘇我本家を滅ぼしたというのは『日本書紀』のうそだったことになるのである。実際は蘇我氏と中大兄と鎌足は敵対関係にはなかった。むしろ蘇我氏を滅ぼした孝徳を恨んでいたのである。

天武はどうだったか?政治的に天武は海人族に育てられ、それまで中央ではまったく力を持たされてこなかった多氏や尾張氏などの海部氏族を優遇した。つまりまさに新閣僚内閣である。そのせっかくの一新された閣僚を、今度は持統は藤原氏を優遇して、天智の白い血脈を復活させた。そして強引に孫の文武へと引き継ごうとした。文武は天武と持統の子であるはず。まさか?

文武から聖武へとつないだ天武の血は、案の定、いつのまにか光仁・桓武の天智の血統へ引き戻された・・・。赤から白へ。






赤い布から白い布へ!



天の香具山は宮の東
その向こうは伊勢・東国
アマテラス信仰の時代はここから始まった!!




さてここからが考古学の真骨頂である。





■蝦夷・入鹿の双墓は大内陵の真上に並んでいた
天武派閥が持統の遺灰を?

まずさきほどの位置関係図をもういちどごらんいただく。







藤原宮の真南、天武・持統大内陵の真上に、小さな方墳がある。
菖蒲池古墳という。
この小さな方墳にえらい人物が眠っている。

 「菖蒲池古墳は明日香村に数多く存在する古墳の中でも謎の多い古墳の一つである。菖蒲池古墳は藤原京の朱雀大路の南延長線上の小高い丘に築かれておりその丘は蘇我蝦夷、入鹿の邸宅が存在した甘樫の丘へと続いている。横穴式石室を持った古墳で、国の史跡にも指定されている。石室の天井石が露出するほど墳丘の変形が進んでいるためその形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳(その後方墳と断定)だと考えられている。石室は羨道部の大半が今も埋った状態であるため、全長は不明であるが以前に調査が行われ、その結果両袖式の横穴式石室であることがわかっている。玄室の大きさは、長さ6m、幅2.4m、高さ2.5mあり、二基の家形石棺が石室の中心軸にあわせて縦一列に安置されている。 
 
 

 
 

 
  家形石棺は極めて個性的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられ、本体部分にも柱状の装飾が施され、さらに石棺の内側に黒漆が塗られているなどこの当時の石棺としては他に例を見ない最高級の作りの石棺とされ、被葬者は相当な実力者だったことが伺われる。」 http://www.ookuninushiden.com/newpage111.html

当ブログ「ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・」http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56223844.html
より



この記事は去年(2014年)の春、ちょうど今時分に書いた記事である。「小さな方墳」菖蒲池古墳・・・。『日本書紀』の蝦夷・入鹿の八佾舞記事のあとに墳墓造営記事がある。大臣の墓を「大陵」、入鹿臣の墓を「小陵」と呼び、これを「双墓ならびのはか」・・・と菖蒲池は入鹿の墓ではないか?!


なぜ天武・持統の墓は蘇我氏の墓よりも南になったのか?偶然だったのか?
またその大内陵墓のさらに南には文武天皇陵がある!


さらに・・・。
今年の一月、正月が過ぎて間もない頃、蝦夷の墓か?というニュースが流れ、ファンが大騒ぎしたのを覚えているだろうか?

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小山田遺跡~舒明天皇陵か蘇我蝦夷墓か
「先日、奈良県明日香村にある小山田遺跡で、古墳の周濠とみられる遺構が発見され話題になっている。

橿原考古学研究所によれば、遺構は7世紀中頃のもので、一辺が50メートル以上もある大型方墳の濠とみられており、古墳としては飛鳥時代最大級のものであるという。

現地説明会に参加した方がお寄せ下さったコメントによれば、1500年前のもであるにもかかわらず、敷き詰められた石は結構正確に切られていたらしい。

それだけの墓を築くことができるのは相当な有力者に違いなく、被葬者の候補としては、642年に崩じた舒明天皇、あるいは、同じ頃に墓を築いたという記録が残る蘇我蝦夷の2人があげられている。」

「一方、小山田遺跡が蘇我蝦夷の墓だったとしたら、話は全く違ってくる。
一辺が50メートルにも及ぶという墳墓は石舞台古墳より大きく、あの時代最大級とされる推古天皇陵にも及ぶほどの規模である。

それだけの墳墓を造ることができるのは、大王に匹敵する、いや、それ以上の権力を持つ人間に限られるはずだ。

巨大な墳墓を建設するためには多大な労力が必要で、日本書紀が記すように、皇子の領地の人々を使役したことも充分考えられる。蘇我蝦夷の横暴を記したとされる日本書紀の記述も、あながち誇張ではなかったということになる。

小山田遺跡は蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったとされる甘樫丘の南西に位置しており、それが蘇我蝦夷の墳墓であったとするならば、その巨大な墳墓と蘇我の氏寺である法興寺(飛鳥寺)を含む一帯、すなわち我々が現在飛鳥と呼んでいる地域は、蘇我が自らのために造り上げその権勢を示した、まさに「蘇我の王都」と言うべき場所であったはずだ。」
http://umerin326.blog.fc2.com/blog-entry-140.html


この遺跡、実は菖蒲池古墳の真横にあるのだ。まさに大墓と小墓が並んでいた!


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小山田遺跡の位置



しかも場所はどちらも蘇我氏本拠地だった甘樫の丘である。舒明天皇陵かとも言われているが方墳は蘇我氏の墳墓で間違いなかろう。ならばそれ以前に出て話題になったピラミッド状の高句麗式方墳の被葬者は蝦夷に贈呈された高句麗の美女媛で間違いない。



以前、筆者は菖蒲池を石川麻呂だろうかと書いたが、どうもこれは入鹿であろう。家型石棺が二基、たてに入れ込んであった。一方が蝦夷だったか、あるいは妻か?あついはこういうことも・・・石舞台から引き出された馬子の石棺。もちろん様式から見たら作り直された新しい様式である。馬子の石棺は時代的に屋根が台状になっているはず。しかし入れ替えがあってもおかしくはない!?

以上、持統の初夏の歌から発展させて、組みあわせていった結果、季節にふさわしい記事に仕上がった。ご笑覧。










豪華おまけ
高松塚古墳
第一候補 石上(物部)麻呂 舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月 22日))近江朝重臣。壬申の乱後天武に寝返る。このとき物部から石上に改名した。
第二候補 弓削皇子
 第三候補 滅亡後逃げてきた高句麗系渡来王族
 
 
「ところで、『竹取物語』において、石上麻呂足は、「燕の持たる子安の貝ひとつ取りて給へ」という課題を与えられる。

 麻呂足は、大炊寮の飯炊きの建物の棟に燕が巣を作ると聞き、足場を組んで巣を探すが、人が大勢いては燕も巣に上がってこない。
そこで足場を外し、麻呂足自身が載った籠を引き上げさせて巣を探った。手が平たい物に触れたので籠を下ろそうとしたときに、綱が切れて麻呂足はあおむけに落ちてしまう。

それでも子安貝を掴んでいたので確認してみると、それは燕の糞だった。それが「カイナシ」という言葉の語源になった。」
 
 
「『続日本紀』で、死に際して「百姓追慕し、痛惜せざるなし(人々すべてが痛惜した)」とされる人徳の人であったことを反映しているとも考えられる」
 
 
「石上麻呂は、和銅3(710)年に藤原京から平城京へ遷都する際の藤原京留守司(最高責任者)に任ぜられている。

 平城京遷都が不比等を中心に推進されたとすれば、藤原京に残った左大臣の石上麻呂と、右大臣不比等の間に軋轢があったとも考えられる。
 
高松塚の被葬者は、発掘調査の際のX線撮影によって、頚椎に「変形性骨変化」が認められた。

 
鑑定にあたった研究者たちは、「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」としているが、被葬者が石上麻呂であるならば、『竹取物語』に描かれた籠からの落下という挿話とうまく一致する
 以上http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_3324.html

またこの墓は考古学上の文武陵であろう中尾山古墳の陪塚の位置(南200M)にある。

 文武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。

しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
 
 



 

中尾山古墳 
八角形であきらかに飛鳥の終末期天皇陵である。文武天皇の考古学上の正しい墓だろう。文武は火葬されているので、ここの小型の横口式石槨はそれにふさわしい。
 
 


 

では今の文武天皇陵檜隈安古丘上陵被葬者は誰?
 高松塚を麻呂の墓とすればその南側に天皇陵を置くはずはなくなる。『延喜式』(927)には「檜 隈阿古岡上陵 藤原宮御宇 文武天皇 在高市郡 兆域東西三町 南北三町 陵戸五烟」と ある。 江戸期の『阿不幾野山陵記』の記述によって、明治14年(1881)に現在の陵が治定されたが、その根拠は不明。 明治の初めころまでこの陵が天武・持統陵とされていた記録もあり、また、江戸時代中期の享保19年(1734)に刊行された『大和志』では、現在の中尾山古墳が文武天皇陵に比定されている。いずれにせよ藤原京の南側にある古墳は、『日本書記』歴史観では天武関連あるいは天智に反する皇族関係者だと考えてよいように思う。考古学的には栗原塚穴古墳と呼ばれ、山形墳という奇妙な形状。この時代の天皇陵(八角)ではありえまい(ただし江戸期に大幅整備改変された可能性。当時、考古学知識なく天皇陵の形状を山形としてしまったか?)。保留。」
これも去年の当ブログから転載。







いずれにせよ、持統は本当は、夫・天武よりも夭折したわが子、草壁、あるいは孫の文武とともに眠りたかったのではあるまいか?

そして持統の遺灰が放り出された理由は、その盗掘の目的こそがそこにあったというのは考えすぎだろうか?政治的に、天武と持統の虚構の夫婦生活を知っていた誰かが、盗掘よりも持統政治への恨みから実行した犯罪だった可能性は否めない気がする。







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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典