「前方後円墳の出現に先立つ弥生後期・終末期における、首長層の形成と大型墳丘墓の 出現の様相を明らかにし、その歴史的意義の ... 大和における強大部族連合の成立」 など 実証的裏付けの乏しい仮説が、銅鐸祭祀や方形周溝墓の発達などから語られてきた。

(プレ前方後円墳には) 鏡・内行花文鏡、石囲い木槨、型不明の桜井市纏向石塚、桜井市矢塚、桜井市勝山(など)がある。これら「纏向型」の(プレ前方後円墳の墳形には) 突出部付き円形墳丘墓が出現していた吉備(楯築)、播磨(養久山5号・1号)・阿波(萩原1号)・讃岐(鶴尾神社4号)の影響があったと見られる」九州大学PDFファイル catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/25325/p017.pdf

※ただし墳丘部石槨まで調査されたのは石塚のみで、あとはたいした調査もされてない。纒向よりも四国北部の萩原1号(徳島)や平尾2・3号(香川)のほうが古いだろうと言われはじめている。






鶴尾神社4号墳(つるおじんじゃよんごうふん)は香川県高松市西春日町に所在する古墳時代前期の前方後円墳。国指定の史跡「石清尾山古墳群」の一つで、香川県最古の古墳と見られている。」

「前方後円墳の特徴である鍵穴ではなく、シャモジのような墳形をしているのが特徴である。これは時代が下るにしたがって定着した鍵穴形の前方後円墳の祖形となったと思われている[1]。」

「石清尾山古墳群」は、「高松市街地にある標高約232メートルの石清尾山丘陵上に20基を超える円墳や積石塚(そのうちの9基)が築造されている。
積石塚は4世紀から5世紀のものである。

なお、この古墳群周辺には、20基の横穴式石室が存在し、6世紀から7世紀のものである。1931年(昭和6年)7月に古墳群として史跡に指定された。積石塚の石船(いわふね)塚、北大塚1・2・3号墳、姫塚、小塚、石清尾山9号墳などの前方後円墳や猫塚、鏡塚、稲荷山北端1号墳[1]などの双方中円墳、その他散在する後期古墳2基などである。さらに東南の尾根上にある鶴尾神社4号墳(積石塚の前方後円墳)の確認調査が1981年(昭和56年)に行われ、1989年(平成元年)4月に追加指定された。

規模・形状[編集]
墳丘の形状は多様である。猫塚と鏡塚が双方中円墳、北大塚三号墳が方墳、その他は前方後円墳である。墳丘はどれも安山岩を積み上げて構築されている。

副葬品[編集]
猫塚は大規模な盗掘を受け、中円部に造られていた9基の竪穴石室から多数の副葬品が検出された。内行花文鏡など銅鏡5面、銅剣17、同鏃8、碧玉製石釧(いしくろ)1、筒形銅器3、鉄剣4、鉄鏃3、鉄刀、鉄斧などの鉄製品4点、土師壺1である」Wiki石清尾山古墳群https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4



鶴尾神社4号墳(つるおじんじゃよんごうふん)は
古墳時代前期(3世紀末)
案内  姫塚古墳から400m(高低差にして約100m)下がったところにある前方後円墳です。古墳のすぐ脇は絶壁となっており危険ですから、柵で囲い立入禁止としておりますので見学はできません。

【外形】 前方後円墳。積石塚。全長は約40mです。後円部は4段に築かれています。

 【内部】 後円部に竪穴式石室1基があります。

 【出土品】 竪穴式石室から鏡1面が出土しました。また、墳丘上からは土師器の破片が出土しています。 」高松市公式HP
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/10331.html
 〒760-8571 高松市番町一丁目8番15号本庁舎7階
  電話  : 087-839-2660  FAX  : 087-839-2659


※鶴尾神社4号墳出土の壷は古墳の墳丘に立て並べられていたものと考えられている。墓の墳頂周囲に大きなものを建て並べるのは、吉備の楯築では巨大な石板であり、やがてそれが大和で吉備式の土器や円筒埴輪に変化したと近畿考古学学派では考えられている。つまり彼ら(寺澤、石野、松木など)は、纒向型前方後円墳が出現する手順は、吉備楯築→讃岐鶴尾神社4号(播磨(養久山5号・1号)・阿波(萩原1号)も含める)→纒向石塚→箸中山と考えているわけである。



ちなみに播磨の養久山5号・1号(古墳時代前期(3世紀)の全長32mの前方後円墳)は
http://avantdoublier.blogspot.jp/2008/12/blog-post_23.html





阿波(萩原1号)は2世紀末~3世紀前半の阿波型積石塚墳。
http://ew.sanuki.ne.jp/snkbunka/tudabun7/kohunnbennkyoukai/text/h200509.html
にそれぞれ概要や画像がまとめられている。





筆者の考察


これらのプレ前方後円墳は、学者による諸説あるものの、纒向のプレ前方後円墳群よりもやや早い時期に生まれた可能性が言われる。

ただ、吉備から纒向に至るそれらを体系的に類似品、変化した墓だと科学的に分析したものはいない。すべてをスムーズにつなげるだけの画一性、遺物の類似、墳形の進化・変化を裏付けるに足る材料がいまだに整合的に抽出してある研究書もないので、筆者はまだ納得したという状況ではない。



まず墳形で見れば、吉備楯築、鯉喰神社遺跡に、楯築と似た点があるとは見えない。
それを主張している松木武彦の用いているこの図面で見ても、楯築を中円双方墳の前身と決め付けてよいものか、いまだ筆者にはわからない。


楯築想像図



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松木武彦『ヤマト王権はいかにして始まったか』所収「古墳出現前期のキビとヤマト」(2011)より


※松木はここで、讃岐や阿波や播磨の古墳を引き合いにはしていない。
一般に、近畿の考古学者は詳細比較がルーズであると感じた。弧文・弧帯文比較分析も甘いし、墳丘の比較による説得力もはしょっており、説得力がない。いい加減である。そういう研究書があるのなら教えて欲しい。



また鯉喰神社の「図面右方向への突出部」も、前方後円墳の前方部分だとは決めにくいと見えてしまう。これだけの資料ですぐさま、纒向型の前身だとどうして決められよう?この比較で、筆者は以前の松木から受けた示唆を、むしろ一旦棚上げせねばと感じてしまうのである。

遺物の面では、讃岐に鏡や鉄器(北部九州的威信財)があるに比べると、吉備にはそれが見られない。吉備の楯築型墳丘墓には、確かに中国からの威信財がなく、鏡もない。似ているところは吉備式の特殊埴輪、特殊壷の墳頂陳列や埋納に近いものは纒向にもあり、弧文、弧帯文というステータス的な祭祀呪模様の「進化」があったことはうすうす見当はつく。だがそれでは完全納得に至らない。

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纏向遺跡 弧帯石


松木が言うとおり、楯築の墳墓様式は伝統的北部九州の低い墳丘墓様式や、世界的にまれな大量威信財の埋納という風習とはまったく違う人々によっていることは間違いない。そして彼らはおそらく九州を経由せずに、日本海から中国山地を横断して瀬戸内にやってきた(高句麗的あるいは中国北東部?)異民族であったと筆者は見る。それがのちの古代大和の吉備氏集団の直接の先祖かどうかはなんとも言えない。


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いずれにせよ、纒向には魏志倭人伝とは大きく矛盾するいくつかのアンチ邪馬台国要素が多すぎて、今は纒向に邪馬台国があったとは決められぬと思っている。

1 纒向では九州からの土器がほとんど出ない(筑紫との連合に矛盾)
2 環濠がない
3 むしろ環濠はその前の唐子・鍵にある
4 武器的な威信財が皆無
5 建造物も弧文も紅花花粉も仮面も、すべて祭祀都市であったことを証明
6 生活観が皆無の王宮か?
7 他国からの大量土器の出土からは「見るあるもの少なし」だった女王のイメージはない
8 狗奴国と争った痕跡も皆無
9 唐子・鍵と纒向の住人の生活観に共通性が皆無
10 見るあるもの少ない女王の住処なら近江の伊勢遺跡などのほうが巨大で条件を満たしている(これは考古学者も認めているものが多いようだ)
11 吉備型の特殊器台を纒向古墳群は墳頂に立てていない(吉備式の祭祀を重要視してない可能性。しかし弧帯石は出てくる矛盾) 

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やはり卑弥呼のいた初期邪馬台国は九州周辺でなければならないと感じ始めている。
 
大和はもっと掘られるべきだろう。
そして九州は何している?というのが今の感想である。




勘違いしないでいただきたいのは、筆者は考古学の考察をまったく否定しているのではなく、もっと納得できる詳細な比較をしてから想定をしていただかないと、首を傾げてしまうと言っているのである。納得できればよし。できねばただの強引な決めつけだとするしかない。ファンを甘く見るなと言いたいのだ。遅々として前に進まない考古学には最近、がっかりしていますので