松木武彦は考古学の分析から、2世紀前の邪馬台国は吉備にあり、それが大和に移った・・・つまり吉備は卑弥呼がいた邪馬台国で、纒向に移動して臺與が治めたという考えを述べている。


吉備式土器、楯築型の墳墓様式がそれを示すというのである。

問題は、吉備に人々が集散した、その人々はどこから来たかである。ひとつは吉備の土器を持つ出雲地方ではあろう。しかしそれだけではあるまい。そこに連合国家の首都ができるには、全国からの移住者がなければならない。纒向のような丹後・吉備・東海地方など全国的な人の移住がなくてはならない。
何よりも纒向から九州の土器があまりでないと言うのは、魏志倭人伝の言うような、邪馬台国が九州の奴国や伊都国と連合していたという記事と完全に矛盾してしまった事実なのだった。

松木はまた、倭国王帥升が吉備の王だとも考えているが、それにしては吉備からは、中国的な遺物が出なさ過ぎないか?

そして楯築の弧帯文と、纒向の弧文に、まったくの同じ模様がなくてはならない。しかし、両者には大きな違いが見えている。



吉備楯築墳丘墓の弧帯文

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纏向遺跡の弧文


吉備の弧帯文には、纒向の弧文のような端っこのデザインの尖りがない。
中央の「目」部分の突起もない。

纒向の弧文が、ゴホウラ貝の断面を組み合わせた可能性が見えるのに対して、吉備の弧帯文は組みひものような、あるいは水引のようなものの渦でできている。


ゴホウラ貝断面とゴホウラディスク 
目の部分に巻貝特有の独特の突起ができる




両者がしかし、ともに「永遠」をあらわそうとした意匠であることは共通している。

纒向のデザインが、ゴホウラ貝断面を意匠にしているとするならばだが、その源流があったのは弥生時代前期の北部九州の貝輪である。しかし吉備の意匠では貝輪とは別のモデルがあったことを思わせている。



纒向から出てくる土器は、九州のものがないわけではない。福岡や大分宇佐地方のデザインの土器が、数点だが含まれている。一方、吉備には古墳時代に、九州の装飾古墳ができている。しかし時代はずっと遅い。それ以前に、なにか九州的な遺物が出てはいないか?


意外に忘れられている遺物に木製製品がある。
これは実用品が多い。しかし、木は腐りやすく、水辺でしか残存しないので、考古学者はどうしても土器や金属器で編年してきた。
しかし、実は残存する木造品は山のようにあるのだ。
その中にはスプーン・フォーク、ビアジョッキ、コップ、祭祀用具の鳥、なべのふた、などのあらゆる生活用品が含まれている。これを誰も分類できていない。土器よりも、生活雑貨はその様式やデザインが変わりにくいという特徴があり、地域性もよく出ているケースが多い。木造品の分類は早急に進めねばならないだろう(石野信弘)。


吉備からは鏡や銅器や鉄器が九州や纒向ほどには出てこない。しかし吉備から移動した最初の土地であろう讃岐には鉄器が多い。


鏡には1朝鮮鏡(多チュウ細文鏡) 2漢鏡 3ボウセイ鏡の三種類がある。

銅鐸には1朝鮮式小銅鐸 2国内産大型銅鐸がある。
銅鐸には舌があり、正確には外部を叩いて鳴らす「鐸」ではない。それは「鐘」「ベル」である。
弥生前半の銅製武器にはやいばがあるが、後半のものにはやいばがない。前半は実用品としてやってきたが、後半は鉄器が入ったことで銅器の武具としての役目は終わっている。実践用武具が必要な時代とは「倭国大乱」までであり、そこで鉄器が主流になり、銅器は祭祀用に埋衲されてゆく。

環濠はいまだになぜ必要だったかの理由付けがなされていない。いくさの痕跡や、武具が出ない唐子・鍵遺跡には、しかし九重もの堀が掘られていた。これはいくさのためというよりも篭城したかのように見えてしまう。あげくにここは捨てられ、纒向が出現するのに、纒向には環濠も掘もまったくない。矛盾している。
獣から守るべき田畑もない。意味がわからない遺跡である。

想像するに「みるあるものすくな」き山奥の隔絶地帯に逃げ込んだ吉備の人々は、遠く九州の目の前の大陸に起こった混乱を知っていた気配はある。知っていて最初は何重にも堀を掘ってみたのだろう。頭の中で恐怖心だけが渦巻いていたようである。しかしやがて外国からの敵はやってこないことがわかって纒向では堀が作られなかったようだ。つまり纒向は倭国が乱れた時代よりもあとの遺跡だとなるだろう。しかし唐子鍵は真っ最中の遺跡だろう。それは外敵だけでなく国内の狗奴国のような反抗勢力の脅威も消えていたことを語る。つまり纒向は臺與の時代の遺跡であり、唐子鍵は卑弥呼から男王の時代の遺跡、吉備楯築や鯉喰神社遺跡は大乱前の遺跡で、どこか遠いところで乱が起きて、すぐに捨てられたものという解釈が可能である。




だから天皇家、大和朝廷に最も近い時代の遺跡は纒向遺跡であることになる。大和に吉備の勢力が入るのは西部の葛城氏の前身が登場する以前か、同時期だろう。おそらく4~5世紀前に葛城山の西側に、吉備と葛城の氏族は登場したはずである。つまり確実な天皇氏族よりも彼らは先住した大王だったとなる。だから蘇我氏は葛城を故地としたいと言うのであろう。そこにステータスがあるということに過ぎない。

そのとき大和東部の岡の上(やまのべ)には物部氏、和邇氏などが入っていたと思われる。この東西両者は別の王家を形成していた。それが大同して大王を担いだ。そこに倭五王のような外来大王がやってきたのであろうか?するとそれは「大和朝廷」ではないことになるだろう。大和朝廷と言いたいならば継体以後の話になるはずだ。

蘇我氏がもしや臺與の子孫であるとしたならば、それは吉備から倭の五王とともに?あるいは紀州の紀氏のように筑後から豊国=宇佐、豊前を経由してやってきた氏族ではなかったか?