用明天皇 - タチバナノトヨヒ橘豊日天皇 6世紀 欽明と蘇我堅塩姫の子。推古兄弟     厩戸皇子の父。母親は蘇我堅塩姫。嬪に蘇我石寸名(いしきな、蘇我稲目の娘。または意富芸多志比売おおきたしひめ。堅塩と同じ訓なのが奇妙)

推古天皇 - トヨミケカシキヤヒメ豊御食炊屋姫天皇 同上 厩戸の伯母 母親堅塩姫

厩戸皇子 -聖徳太子-トヨトミミノミコト 用命の子 祖母堅塩姫.

ここまで完全な蘇我本家系である。


皇極(斉明)天皇 - アメトヨタカライカシヒタラシヒメ天豊財重日足姫天皇
母方が息長広姫系であるが父敏達は継体(息長系)と尾張目子姫系。父は敏達の孫茅渟王で母は吉備津姫王(欽明天皇の孫)。敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。
蘇我氏との血縁なし。
舒明天皇の正妃。子供が天智・間人皇女・天武

孝徳天皇 - アメヨロズトヨヒ天万豊日天皇
皇極の弟。同じく蘇我氏と無縁。ただし妃に馬子の孫。遷都した難波豊崎宮の地名が豊崎だったためか?しかし姉の皇極は難波とは無縁。



文武天皇 - アメノマムネトヨオオジ倭根子豊祖父天皇あるいは天之真宗豊祖父天皇
持統天皇の孫。父・草壁皇子、母元明女帝。元明は天智と蘇我姪姫の娘なので文武も蘇我系。

元明天皇 - ヤマトネコアメツミシロトヨクニナリヒメ日本根子天津御代豊国成姫天皇
阿閉(あえ=阿部)皇女。母が蘇我姪姫で蘇我系。しかしその娘であった元正女帝は豊を名乗らず「やまとねこ」と、息長系の「たらし姫」を名乗る。

聖武天皇 - アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコ天璽国押開豊桜彦天皇・ 勝宝感神聖武皇帝
文武の子。母藤原宮子。


仁明天皇 -ヤマトネコアマツミシルシトヨサトノミコト日本根子天璽豊聡慧尊
(異称)深草帝 833年~名は正良親王といい嵯峨天皇の第二皇子。
823年叔父にあたる淳和天皇の皇太子となり、833年淳和天皇の譲位を受け即位した。
母も皇后も橘氏娘。自身の先祖も橘氏。
さかのぼれば先祖が橘諸兄(藤原不比等と県犬養八千代の子)。
蘇我氏とはまったくの無縁。
「豊聡」は厩戸の諡号であるので、あやかっただけか?

※ちなみに持統天皇は天智と蘇我遠智娘とのあいだの子で蘇我系である。つまりその子の草壁や孫の文武も当然、母方蘇我系(父方天武)である。

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こうして仕分けしてみると、豊諡号を持つ人々は、四つに大別できる。
1 用命~推古~厩戸という蘇我本家を母方に持つ一群。
2 皇極(斉明)~孝徳という難波豊崎に関与した一群。
3 元明~文武~聖武という母方が蘇我姪姫の子孫の一群。
4 仁明という無関係な時代の人。

さて、1と3は時代をやや隔てているが蘇我稲目、馬子、蝦夷の蘇我王権時代の人々で共通する。

2はそれをつないだ世代であるが、孝徳が蝦夷・入鹿を誅した本人である過程可能で、皇極(斉明)はその変の際、入鹿の目の前にいた人である。



さて、ここで思い出すことがある。蘇我蝦夷のあだ名が「豊浦大臣 とゆらのおおおみ」だったことである。父・馬子は屋敷に島を浮かべた四角い池を持っていて、「嶋大臣」と通称されたが、蝦夷は飛鳥の豊浦に豊浦寺という別荘を持っていたので豊浦大臣であった。1~3の豊諡号の理由で最もあっただろうと思えるのは、この蘇我本家の土地・豊浦地名ではなかったか?その周辺が「豊」地域=蘇我氏の土地だった可能性は高い。その蘇我本宗家氏の最も力があった時代の、母方に蘇我氏を持った天皇たちが、どうやら「豊」を名乗ったことは間違いあるまい。問題は2の孝徳と皇極にまったく蘇我氏との血縁がないことだが、当時の宰相は蝦夷である。あやかったと考えられそうだ。もちろん単に「豊穣」という美称である可能性もあるだろうが。

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さて、蝦夷の読みは「えみし」であるが、奈良の明日香村の豊浦や甘樫丘の低い山地=河岸段丘が「エビス谷」通称「エベスっさん」などと民衆に呼ばれ、今もエベス地名であることをご存知か?エベスは恵比寿のなまりで、エビス。海の神。蝦夷もえびすと読む。なぜ彼が蝦夷を名乗ったかというと、誰もが生命力があるからと答える。しかし蘇我氏が欲しがった葛城の本拠地にある高鴨アジスキタカヒコネ神社にはエビス=八重事代主が祭られているのだ。事代主は出雲から高鴨氏が葛城山に持ってきた出雲の神である。そして葛城氏はそもそもが伽耶から秦氏を連れて戻ってきた氏族だ。その大和ではない、伽耶~出雲の海の神であるエビスを蘇我蝦夷は名乗ったのである。このことは蘇我本宗家氏はエビス=渡来系海人族だったという意味にとれないだろうか?あるいはそれが縄文的な倭種であった可能性もある。

蝦夷の子・入鹿の名も、海に関係している。そして入鹿は林太郎であった。何か関連性はないだろうか?

こうしてみいると葛城王だった天智の弟天武が、やはり海に関与した大海人を名乗ったわけもうすすすみえてくる気がする。天皇の血脈と海人族の不思議な関与だ。渡来系民族は日本へ渡るとき、半島南部の倭種つまり海人族をナビゲーターにするので、当然両者には主従関係は生まれただろう。そういう古墳なら九州北部にいくらでもある。いわゆる装飾古墳である。中には装飾古墳とそうでない同時代の古墳が隣接するものもある。

奈良県明日香村(遠つ飛鳥)にある馬子の桃源墓つまり石舞台の東北部周辺には、古い時代の横穴式古墳群がたくさんあって、これがやはりエベスと呼ばれている。石舞台そばのやはり東から、坂部摩利勢が兄馬子の墓を作るとき、近くに小屋を立て、そこにあった多くの墓をこぼって、墓所にしようとしたが、そのとき崇峻天皇が暗殺されてしまい、天皇位をめぐって穴穂部皇子と推古が対立。馬子らが推す推古を、摩利勢が推す穴穂部が襲うという事件に発展するのだが、摩利勢はこのとき、兄の墓作りをおっぽらかしたばかりか、作業小屋を打ち壊して去ったとされる。

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その作業場あとらしき遺跡で、巨大な柱穴が二つ、並んで見つかっている。なんらかの柱を建てて作業したらしい。記紀には、飛鳥のある天皇の墳墓に二本の柱を建てた記事がある。どうも墓には柱が建てられたようだ。例えば朝鮮のソッテのようなものか?あるいは中国神樹思想から来たものか?




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いずれにせよ葛城山の西側に「近つ飛鳥」=安宿があり、そこは蘇我氏の関連遺跡がたくさん出る。石川の沿線である。ここがもともとの蘇我氏の本拠だったのだろう。そして豊の蘇我稲目が、最初葛城の比売を娶ることから蘇我氏の突然の繁栄は始まったのである。この嫁の存在こそが、新参蘇我氏のステータスだったのである。ということは、いかに葛城氏の血脈が大事だったかの証拠となろう。天皇家でさえも、やはり葛城の娘を最初に娶って大和王朝が始まったのである。

ということは葛城は、かつての王家だったことになるのではないだろうか?

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さて、その安宿の北部に一須賀という土地があり、三つの方墳がある。シショツカ、ツカマリ、アカハゲ古墳と、その関連古墳群である。これがそが=すが由来地名かとも思えるが、「須賀」は出雲の地名でもある。スサノヲが「心すがすがしくなった」と安住したのが須賀である。この安住と地名安宿には意味が近いものを感じる。すると蘇我氏はもと出雲にいた・・・その前は葛城氏同様、伽耶にいたのではないか?という気がしてくる。

つまり蘇我氏はエビスだったのか?国譲りで出雲を明け渡すことに同意して、海に没して消えたという事代主とは、つまり蘇我氏だったのだろうか?豊という地名は海岸部なら日本中どこにでもある。海辺の港の多くが、豊浦や豊津や豊岡を地名としている。そこに、多く、恵比寿や鴨神社や住吉神社があろうかと思う。




参考文献 西川寿勝・相原嘉之・西光慎治『蘇我三代と二つの飛鳥』NHK大阪文化センター 2007


次回稲目の墓は五条野(見瀬)丸山古墳?欽明は?