これまで秦氏の伝説上の祖神である弓月君(ゆつきのきみ、ゆんずのきみ)についてはいくつかの自説を書き並べてきたが、筆者自身、いまひとつ納得がいかないところもあった。今回、かなり納得できる説が見つかったので書き留めておく。



弓月を、これまでは月読神=王家、太子の影の存在としての秦氏として、彼らの大元が蜀の西にあったインド・スキタイ系国家の月氏国などとする意見があった。それはそれとしておいておくが、どうもなぜ「ゆみつき」ではなく「ゆつき」と読ませるのかが見えてこない。大酒神社社伝の「ゆんず」に惑わされすぎたのかも知れない。

いずれにせよ本系帳にある河勝を祖とした数々の秦氏伝承を作り出したのは、どうやら右京に置かれたと記録にある讃岐秦公一族だったのではないかと北原糸子が書いている。するとその年代は『日本書紀』の言うような河勝伝説のあった推古時代よりも下がって880年ころだったことになるのである。

『本朝月例』『令集解』『政事要録』「本系帳』『三代実録』などを読んでゆくと、元慶元年(877)に讃岐秦公一族が右京に移管されたことが見える。そしてそれらの記録を書いたのが讃岐秦氏一族の惟宗直宗、直本、公方、允亮であり、『三代実録』に惟宗氏の改賜姓があったと、やはり元慶七年(883)十二月二十五日条にある。そこには惟宗各氏が、下野権介秦宿禰永原、大判事明法博士秦公忌寸直宗、音博士秦忌寸永宗、主計大允秦忌寸越雄、右衛門少志秦公直本ら男女19人に認めており、さらに「秦の始皇帝の12世の子孫、功満王の子、融通王の苗裔」を自称した始祖伝承とともに
掲載されている。直宗、直本の名は、あきらかに惟宗の二人である。

つまり最初は惟宗氏は讃岐から来て、右京に入ると秦を名乗ったのである。その右京は秦下氏という氏族が「姓氏録」では見える。つまり惟宗は9世紀には秦本家とえにしを通じて秦の「下氏」となったのであろう。

「本系帳」はすると元慶年間作成だった可能性が高いことがわかってくる。そのころに、葛野の秦氏、松尾の秦氏(秦の中氏ではないか)とも血縁を結んで惟宗=秦公は登場するのであろう。

すると『日本書紀』の秦酒公や河勝、太秦などの伝承が、9世紀のこのころに、「あとから付加された」可能性を考えねばならなくなる。


前の記事に書いておいた葛野郡司に植わっていた槻の木を切ろうとしたら松尾の神が祟った話がここで重要になる。実はこのときのような樹木伐採の祟り話は明治期にも山ほど新聞記事になっていて、実際に係りが死んだり、病気になったという。もちろん、長年日本人がそういう樹木の祟りを信じてきたためにやまいになったりするのだろうが。ともあれ、この郡司の槻の木は聖樹ゆえに「斎槻」とも表記して「神いつく樹木」つまり「いつき」であったのである。それがなまって「ゆつき」になった。

このような神社関係での「いつき」→「ゆつき」の変化は、筆者近くの大分の「ユスハラ神社」が「いすはら」と一般人ではなまっていることからも理解できる。「い」が「ゆ」になまるのは珍しくないのである。

このことから「弓月君」とは、
1 惟宗秦公の誰かが
2 郡司かどうかはしらねども、槻=ケヤキの大木を聖樹とし、神のイツク樹=いつきから、秦氏の影の存在としての月トーテムとあいまって弓月=三日月の弓の音を取って「ゆつき」となまって「ゆづき」へ変化した。
3 そのケヤキ大木は樹精が強く、広範に枝を繁茂させて、ときに神器や臼の素材となった。
4 そこからこれを西欧の世界樹やクリスマスツリー、中国の神樹思想の影響で聖なる木=秦氏全体の祖霊樹→祖神秦河勝と酒の君らの形見とするようになった。
5 弓月君とは「いつく樹木」であり、葛野を堰によって切り開いた葛野秦氏の王だったとした。



以上。


次回
おたぎ・あたご本義
マハーカーラ、摩多羅神、斑本義
後世書き換えられた『日本書紀』
聖徳太子=秦河勝


ほかにもしばらく京都各所を扱います。